2018年6月27日水曜日

その場で切り返せなければ意味がない?

「○○ってどうなの?」→「わからないので、調べて折り返し連絡します」
「じゃあ、△△は?」→「そちらも同様でして、急ぎ調べて対応します」

○○とか△△って何でもよいのですけど、講義やゼミで扱った内容以外の問題ならばすべて、あとから調べて対応することになりますよね。でも、実務ではそんな猶予はないことが多いです。その場で何らかの切り返しをしておかないと、次の機会はない。もちろん、次の機会なんて必要ない場面もありますけど(嫌なお客さんとか取引先でもう先はなくて良い場面とか)、僕のゼミではその場でどうまとめるか、どう話すべきか、というトレーニングをしています。

僕のゼミは、他のゼミより楽かもしれないですが、前に話したとおり、下手をすると何も残らないリスクがあります。金融商品っぽく説明すると、ハイリスク・ハイリターン商品です(笑)。

他のゼミでは、ある問題を1週間から数週間かけて徹底的に調べ上げて、その内容をレジュメにまとめて報告する、そういう流れが一般的です。グループで集まって、必死に調べたり、レジュメをまとめたりすることで、グループワークをうまくできるようになるとは思います。そういった時間の共有自体が貴重な機会であり、重要な経験として皆さんには残ります。

僕のゼミでは、そういう貴重な機会や重要な経験はありません。あるのは、基本的に授業時間内の作業とプレゼンだけです。逆に言えば、そこで何かを得られなければ、何も残らない、ということです。

大学の外で働く場面に遭遇すると、大学とは異なる時間が流れています。純粋な申込みと承諾なんて本当に存在するのかな、そう思うことさえあります。理不尽なことで怒られたり、人のミスでも自分のミスにされることなんてざらです(笑)。大学の外の方が、普通の世界なのですけど(笑)、一般的なゼミではそこが実験室であるかのように、真空状態でさまざまな努力がなされているわけです。現場では起こりえない想定だったり、教科書の事例だったり、過去の判例そのものを扱い、議論しますね。何のために、誰のための理論や議論なのかは、置いてきぼりになりがちです。

過去の事例や想定事例は、あくまで事例にすぎず、本当に大事なのは目の前の事案です。
目の前の事案についてコメントを求められて瞬時に、何かしら話せるのかどうか。たとえば、「○○ですと、☆という最高裁判決が適用されうるのですが、おっしゃるような事実関係ですと、・・・になりますかね。ただ、最新の下級審判決や論文を確認させてください」とか。分からない問題に遭遇したら、その場で即座にリーガルリサーチしたっていい。早さとある程度の正確さがあれば、ですけどね。

覚えたこと、書いたことを話すのではなく、その場で自由に話してみませんか?そこではきっと、ゼミで学んだことを活かせるはずです。相手の反応は、どこまで予測しても、予測を超えてきますから、その場で切り返す、切り返せる、そう思って話してみましょう。

※最近、青学ではなくて某大学のゼミでは、質疑応答形式でプレゼン中に質問して、それに答えて貰っています。質問する方も大変ですけど(笑)、僕から質問される方はもっと大変だろうな(笑)。あんなのに対応できたら、就活なんて何にも怖くない気がします。


2018年6月24日日曜日

ゼミ生の選考について(2018年度版)

ゼミ生の選考については、志望理由書と成績を考慮しつつ、最終的には面接で決定させていただきます。ゼミ生を選考するにあたっては、公平かつ平等に、このゼミで勉強するのに相応しい方々に来ていただければと思っております。

ゼミ生に期待するのは、何よりやる気です。担当者がそうであるように、大学生の頃に将来をすべて見通せるヒトばかりではありません。何やろうかな、何をやれば成功できるのかな、よい就職や素晴らしい将来を得られるのかな、というように悩みが尽きないでしょう。そのような状況で、どうして医療に関係する法政策を勉強しようと思ったのか、自分がこのゼミにフィットするのはどうしてか、どう勉強したいのか、ゼミで何を目標にするのか、自分がどのようにゼミに貢献できるのかなどなど、面接では詳しく伺わせていただきます。

このゼミの選考では、これまでの成績をもちろん評価させていただきますが、それ以上に、法的に考える能力について、センスを試してみたいと考えています。成績は、今後の努力でかなり変わりうるものですが、センスはなかなか変わりません。これまでの法学の講義において、そのセンスがどれだけ鍛えられているのかについて確認させていただきます。

また、このゼミでは、従来のようにレジュメをまとめる作業を頑張ってもらうというより、短時間で考えをまとめ、その内容を紙に残したり、プレゼンテーションするような能力を養います。人前で話す機会もたくさんありますし、グループワークも毎回あります。今、引っ込み思案の方でも構いませんが、そのような活動に従事できるかどうかも、選考の判断基準とさせていただきます。

なお、第一期生となるゼミ生は16名で、男子が6名、女子が10名です。第二期のゼミ生は12名、第三期のゼミ生は21名です。僕のゼミは、16名を基準にして、若干増減がありえることをどうかご理解ください。


できる限り、男女比を揃えるように努力しているのですが、申請段階において男女比がずれている場合もあるため、一概に均等にできるとは確約できません。ご了承いただければ幸いです。

ゼミの選考プロセスは、公式のものはまだまだ先ですね(笑)。先っていっても、すぐ来ますけどね。
僕は、本当に入りたい学生に入ってもらえるようなプロセスにしたいと思っています。プレゼミ生の取り扱いも含めて、今年の選考は試金石になるはずです。僕の講義は、ゼミに近いテイストを持っていますから、僕の講義を楽しめるのかどうかは、選考プロセスに入る前に是非ご確認いただければ、と思います。

皆様とお目にかかれるのを楽しみにしています。

シンギュラリティと法ーいつかの講義のために

僕は、AIの専門家ではぜんぜんないですけど、AIが進化したときに社会にどのような影響が出て、それに対して法がどうあるべきか、という問題には凄く関心があります。少し前に、特任で雇われているある大学の法学部3年生から、関心があるけど大学院向けの講義に出て良いか、と言われました(結局、履修しなかったようです(笑))。学生の中にも関心を持つ人がいるということは、おそらく社会的な関心も少しずつ高まってきているんだなぁ、とぼんやりと感じていました。

法律の講義は、特に日本ではですけど、分からないことがあるとダメ、分かっていることしか教えない、という大前提があるように思います。そうすると、シンギュラリティ(技術的特異点)という、いわゆるまだ見ぬ世界の話なんて、教えようもないことになりますよね。技術的特異点の具体的なインパクトが分からない以上、法的な話はぜったいにできないのかも。

技術的特異点について不明確なことがあっても、法的な問題はすでに少しずつ起き始めています。自動運転や移動革命の担い手であるドローンはもちろん、契約や労働法の問題はよい例ですね。僕は、今起きている現象を講義の中にできる限り取り込んでいきたいと思っています。法学部では嫌われてしまうかも、ですけど。まだ誰にも解かれていない問題こそ、法学部では本当の意味で法的な思考を問われる重要な問題のはずだからです。

暫定的ではありますが、僕が「シンギュラリティと法」と題して講義をするとしたら、下記のようなシラバスになりますかね。ある大学だと「技術利用と法」、青学だと「法と経済」という講義で扱っている内容を少し修正して話すだけ、なのですけど、意外と皆で楽しめるのではないかな、と思っています。

=====
1.はじめにーなぜ、今シンギュラリティを考えるのか
2.データー自力救済、的救済、そして「コード」による支
3.パーソナルデータの活用が未来を変えるー便利さよりもプライバシーの保護を優先できる?
4.シンギュラリティイノベーションーヒトではなくAIがイノベーションを定義する時代?
5.シンギュラリティ形式ー規制はどうなっていくか、どうあるべきか?
6.シンギュラリティ契約ー契約は本当により合理的な内容になる?
7.シンギュラリティ知的財産ーインセンティブを与えられるべき対象は何か?
8. シンギュラリティコーポレートガバナンスー取締役の義務や役割はどう変わる?
9. シンギュラリティワークスタイルーは労働者を守れるのか、どう守るべきか?
10.シンギュラリティ弱者保護ー生活保護や社会保障はどう変わる?再チャレンジは可能なのか?
11.ケーススタディしての自動運転自動車ーは技術にタイムリーに追いつけるか?
12.まめーシンギュラリティと法
=====

実は、この講義は今年、何らかの形で実現できそうだったのですけど、ダメになったのでここに
掲載してしまいました(笑)。誰かが参考にして講義にしてしまうかもしれないし、反面教師に
されるかもしれないですけど、僕は僕なりの講義を、いつか必ずしたいなって思います。

医療と法のゼミでも、シンギュラリティやAIを意識した問題を扱いたいと思います。


2018年6月23日土曜日

楽単にそんなに価値がある?

「アメリカ法は法学部一の楽単」、という噂があるみたいですけど、ぜんぜん違います。誤解しないで欲しいのは、アメリカ法の試験では10~20パーセント、単位を落とす人が毎回いらっしゃいます。講義に出席していて単位を落とす人がまずいない、というのならば、法学部一の楽単でも何でもなく、ごくごく当たり前でしょう。僕らは、授業料を貰って講義させて貰っているのですから。単位を落とさせたい教員なんて誰ひとりいません。大事なのは、修得すべき内容を修得しているか、それだけです。講義で復習のための機会を設けるのは、修得を確実なものにするためでしかないのです。

最後の復習のための回(3回か4回だけ)に出席すれば何とかなるかもしれませんけど、まあ、そんなことしても意味はあまりないかと。法学部の卒業にはほぼ何も付加価値がない状態だからです。どんな講義を履修し、その中で何を学び、法律をどう駆使して生きていけるのか、そっちの方にこそ価値がある。

僕が出席を強要しないのは、自発的に来て勉強しようと思わないと、頭には入らないからです。頭に入らない講義を受けてもお金と時間の無駄でしょう。無駄なことはある意味で罪です。そのお金と時間を他に振り向けたら、人生にとってもっと有意義なことができるかもしれない。

僕の講義は教科書の内容を簡単に理解できる+αを目指しています。そうでなければ、講義する意味はないのではないか、とさえ思います。教科書の内容を理解させるだけなら、教科書を読んで解けるような穴埋めの試験をやればよいだけなので。

リーマンショックでは格付け機関の甘めの格付けが問題拡大の要因の1つだと言われていますね。アメリカ会社法でも話しましたけど、楽単を探し、それで仮に卒業できたとして何が起こるのか、想像したら面白いです。企業側が楽単かどうかをAIで選別し、大学時代の成績表を取り寄せて分析するようになったら、楽単だけで卒業したことがわかってしまうようになるでしょう。それは、就活での評価に使えますよね。ああ、勉強はまったくしてないのだと。

楽単は、おそらくですが、良い成績を取るのが難しいことが多いです。パスはできても好成績を残しにくいというリスクがあります。相対評価で下の成績の方を救うには、難しい問題を出さざるを得ないからです。そういうリスクも考慮したらよいかと思います。

楽単、そんなに価値がありますかね?

(A photo takein at Meigetsuin, Kamakura, Kanagawa, in June 2018)

2018年6月17日日曜日

The Good Fightー弁論で世界を変える、クライアントを救える?

海外ドラマ「The Good Wife」のスピンオフドラマ、「The Good Fight」は弁護士のドラマですけど、ああ、法律を学ぶことってこういうことなのか、としみじみ感じさせてくれます。

法学部で勉強していると、「なんで法学部に入ったのかな」って思う瞬間が必ずあります。医学部なら、国家試験パスしてとりあえず「医者」になるという道がはっきり見えているけれど、法学部にはたくさんの道が開かれているせいで、法律習って意味あるのかなとか、法曹にならないなら単位取って就活して卒業できればハッピー、そういう考え方に流れてしまいやすいでしょう。でも、というか、だからこそ、法律の勉強は単位とか成績にかかわらず頑張る意味があるんです。

法律が関係する世界は、結局どこまでいっても、人が人を裁き、判断します。AIが判断するわけではない。人は必ず間違えますし、ルールに事実を当てはめて何かしらの結論を出すときには、法学部で習っていること以上に生々しい人々の政治や、利害関係が交錯します。一般の会社に勤めていても、社内ルールに縛られることはよくありますよね。そして、社内の政治に結論は大きく左右されます。要するに、ルール一般は、真空の中に存在していなくて、たくさんのノイズの中で適用され、結論には関係者のさまざまな「想い」が影響を及ぼさずにはいられないのです。

はじめに言葉ありき、ペンは剣よりも強し、そんな言葉があるように、人の心を動かす1つのツールが「言葉」です。ルールは「言葉」からできていますし、事実関係も究極的には「言葉」で説明し直されます(映像やデータそのものが提出されても、ルールに適用するときにはそこから重要な点を抜き出し、言葉の形で説明し直されないと使いものになりません)。

「The Good Wife」でも「The Good Fight」でも、言葉の力を再認識させられます。もっと具体的に言えば、言葉から生み出される弁論だったり、交渉だったり、一瞬一瞬の言葉のやりとりが、良くも悪くも世界を変えてしまう瞬間を目の当たりにします。弁護士であれば当然なのかもしれませんが、弁護士にならない人にとっても、ビジネスで言葉は重要です。ルールの取り扱いが案件や人生を大きく左右します。

講義ではなかなか話している時間がないのですけど、ルールを使いこなすことはもちろん、そのルールに事実を適用したときにどうして自分がわかりやすく話したり、説得力を持たせるためにどんな順序で、どんなデータやエビデンスを、どんな風に見せるのか、どんな表情で、どんな身振り手振りで話すのか、そういう技術を法学部では学べるはずです。法令を覚えても、判例を覚えても、学説に詳しくても社会ではあまり意味がないでしょう。どんなルールも、結局はパズルです。ルールだけでは結論はでなくて、事実が必要です。どんな事実があれば自分に有利になるのか、どんな事実をどう見せたらよいか、もしルールについてそんな見方ができるようになったら、あとはその次のステップに入りましょう。事実をどう扱うか、そっちに注力すると、法律を学ぶのがますます楽しくなります!

ルールがある世界ならどこでも、日本でも世界でも、法学部で勉強したことを活用して、自分やクライアントに有利な状況を作り出すことができます。ルールは別に法律に限られません。社内ルールでもマンションの組合規約でも何でもオーケーです。サークルの内規だってよいです。そういう風に世界を眺められたら、ああ、もしかして法学部って凄くお得かもしれないって気づけるのではないでしょうか。

法学部って悪くない、むしろそこでの勉強は法曹になってもならなくても価値があるし、むしろそういう価値のある講義やゼミを提供していきたいな、と思っています。今までの法学部とは少し違うかも、ですけどね(笑)。

法学部で真面目に勉強して、弁論で世界を変える仕事、クライアントを救う仕事に着いてみませんか?

2018年6月16日土曜日

他人の行動を変えられないなら、やるべきことは何?

法は、他人の行動変容を促すための重要なツールの1つですけど、法を使ってもなかなか上手くいかないことはたくさんあります。その時にやるべきことは、「自分でやってしまい、成功を見せてあげる」こと。他人が行動を変えるのを待っているよりも、自分で動いてしまいましょう。自分でも動けない場面は、要するに、リスクとリターンが見合っていないために、他人も動けないだけ、かもしれませんよ。

昨日、知人と会ってある話題になったときに、上記のような話が出ました。詳細は書けないのですが、いろいろとインセンティブを付けても誰かにリスクを取らせられないなら、自分でリスクを取ればいい。十分なリターン(リスクに見合うリターン)があるなら、自分で取れないはずはない。リターンがない世界なら、他人でも自分でもリスクを取れないでしょう。それは当たり前のこと。

僕は、リスクを取った学生を応援したいです。最近、リスクを取って頑張った学生がまったく評価されず、ある意味ではとても悲しい結末になったケースがありました。詳しく書けないのが残念ですけど、時間を割き、できる限り協力したのにそれでも何の見返りもない。約因がない約束だったと言えばそれまでかもしれないです。しかしながら、それなら最初から見返りなどない、期待するなとはっきり言えばいいし、見返りが期待できなくなった時点でその旨を話してくれればいい。見返りするかもといいながら結局しないでいろいろお願いしていると、いずれそのお願いは破綻します。結局、誰からも信頼されなくなり、誰からも協力してもらえなくなるでしょう。気付かないでいる間に、です。

リスクを取った学生には、「きっとよいことある」って言ってあげたいです。
よいことが何なのか、それは後のお楽しみ。もう少し待ってください。失礼な人がいるように、ちゃんと見ていて手をさしのべる人も世の中には必ずいますから!



2018年6月15日金曜日

法令に書いてない一手を打てる?

先日、成績優秀者の表彰式がありました。表彰された学生には改めて心からお祝い申し上げたいと思います。

成績優秀者が幸せな、そして活躍できる人生を送れるかと言えば、それは誰にもわからないです。人生はいろいろなものに左右されるからです。ただし、大学で法律の勉強を頑張れば、それなりに幸せな、そして活躍できる人生を送る確率を少しは上げられるかもしれません。僕は、成績優秀者のことはもちろん、真面目に勉強している学生のことを尊敬したいし、応援したいと思っています。

なぜ法律の勉強を頑張った方が良いのかと言えば、それは、暗記やリーガルリサーチでは足りない世界が将来広がっているからです。法律の試験勉強に暗記は付き物ですが、目の前の新しい問題には想定問答集はないですし、模範解答もありません。暗記なんてしても、解けない問題が目の前に何度も何度も起こります。また、調べればわかるとしても、瞬時に法的な判断を求められる場合もあります。そのような場合、弁護士に電話する暇もないかもしれません。暗記ばかりして、それなりに素晴らしい成績を取っていても、下手したら目の前の問題にはまったく太刀打ちできないかも。

僕は、成績が優秀であることも大事だとは思いますが、より重要なのは真面目に法律を勉強することだと思っています。真面目に勉強するというのは、見たことない問題を考えて行動できるようになる、ということです。法律の世界には解かれていない問題が山積していて、そういう問題については答えを暗記することはぜんぜんできないのです。できることは、法令の内容、過去の重要判例やその解説、場合によっては学説を利用して、解かれていない問題で最善の決断をし、自分や自分の組織に利益をもたらすこと。たとえば、アメリカ会社法のレブロン事件とか、Pantry Pride側の弁護士の用意周到さにはしびれます(笑)。過去の判例には明確に書いていないけれども、やるべきことは何か。答えがない中で弁護士は助言し、裁判での勝利を確実なものにする。そんな頭の使い方を、僕は講義やゼミで伝えたいのです。

成績優秀者を含めて真面目に勉強した人が、「ああ、勉強しといて良かったな」といつの日にか思えるような講義やゼミを続けていきたいと思います。法令に書いていなくても、勝つためにやるべき「一手」、あなたには考えられますか?

2018年6月13日水曜日

目立たない仕事でも頑張る意味はある?

学者というと、名前と顔を出して目立つ仕事ばかりだと思うかもしれませんけど、必ずしもそうではないです。目立たない仕事は、山ほどあります。目立つ仕事を頑張るのは当然ですが、目立たない仕事でも見ている人は結構いますから、しっかりやらないとダメです。

社会人になると、ばれなければいいとか、見られていなければよいというのは通用しなくなります。ある意味で結果がすべて、だからです。チームとして、ある仕事ないし案件の成功は成功、失敗は失敗として共有することになるので、チームの誰かがダメだからその人だけ責めようとしても無駄なのです。結果をよくするために、チームでやるしかないからです。学生のうちは、さぼっていてもばれなきゃいいとか(笑)、見られていないところはどうでもいいと思いますよね。ゼミでも自分の担当回以外は、必要最小限度の努力で済ませて良い単位認定を受けられればよい、というように。

チームの中で上に立つ人は、全体をマネジメントして責任を負うことになります。成功も失敗も受け止めるということです。チームを構成し、成功するように助言したり、必要に応じて指揮命令を行うこともあります。失敗をチームの誰かのせいにしても無駄で、上に立つ人が昇進などを犠牲にして責任を取るのが普通(そうでない会社や上司もいますけど(笑))。

働くときのメカニズムは意外と単純ですが、学生のうちはなかなか理解できないですよね。目立たない仕事でも、周りの人は見ています。会社に入ったら、(優秀な)上司は、必ずどんなに地味な仕事でも仕事ぶりを評価します。地味な仕事でも、ある程度はチームに貢献しているはずなので。学生のうちにさっさとメカニズムを理解して、就活に臨めたら相当強いですよ!



2018年6月12日火曜日

誘導から離れて議論したり、反論を唱えてみない?

最近、ゼミで異なる意見を出してくれるグループがあったり、誘導に異論を挟んでくれる学生がいたりします。今まではなかったことです。日本では、講義でもゼミでも、異論って許されないですよね。このゼミは違います。異論や反論は大歓迎です。

大事なのは、ただ異論や反論を唱えるのではなく、どうしてそう考えるのか、結論が異なるのかをわかりやすく伝えることです。たとえば、事実関係を異なるように捉えているからなのか、それとも法令解釈が違うのか、などですね。僕は、いろいろな異論や反論が出ることを想定して話しています。そういう異論や反論があることを想定しつつ、どうしてこの事例について、モデル回答のように考えたのかを学生に話します。ある程度の異論や反論は想定しているけれども(いわゆる「想定内」)、○○の理由からこのように助言するかなぁ、って感じです。そもそも、100%の助言なんてありえないので、事実関係からどこまで正確な助言を目指せるか、そのために場合分けやリーガルリサーチを駆使する、そういう世界だと思っています。

僕が話すから正しいとかではなくて、関連法令、判例、ガイドラインを読み込んで、実務的な課題も踏まえた上で、自分ないしグループとしてはどう考えるのか、事実関係の問題なのか、そもそも法令解釈が他のグループと違うせいで異論や反論になるのかをグループで検討したら、今以上に楽しくなります。僕の誘導はあくまで、誘導でしかなく絶対的に正しいものでもないです。こう考えるのがオーソドックスではあるけれど、どうしたら僕の誘導から離れられるかを考えるのも、楽しみ方の1つではありますね。

(ちなみに、ディベートをするには、自分と相手との違いや、相手の議論を想定して先んじて封じ込めたり、逆に不利な点は言わないでおいてあとから切り替えすなどの技術がないと、あまり意味はありません。)

最高裁が言っていることでも「んー」って思うことがあれば、それを大事にして欲しいです。最高裁には、超一流の法律家が調査官として張り付いています。その見解に異論を唱えるのには勇気が要ります(笑)。なぜ変だと感じるのか、むしろ変だと感じること自体が自分の誤解から生じているのではないかなど、そういう疑問が追加的な調査や勉強を促し、皆さんの知識を増やすはずです。

たった1時間半、真面目に考えて綺麗にプレゼンする。それだけのゼミですけど、2年後にはたぶん、皆、見違えるように話が上手くなっていると思います。少しずつですけど、ゼミ生が変わってきているのを僕は感じています。Twitterではなかなか表現できない「能力の伸び」を、どこかで是非感じてほしいですね。

2018年6月10日日曜日

Life and work balance?

余暇と仕事のバランスは、最近の就活では極めて重要なアピールポイントなのだそうです。僕にはそんな余裕はなくて、仕事ばっかりです(笑)。日曜日にも仕事にかり出されて怒られるのには慣れてはいますが、それでも楽しいものではないです(笑)。

仕事って何かっていうのがわからないと、"life and work balance"ってなかなか言えないですよね。世の中に出ると、ああ、自分には代わりが沢山いて、しまいにはAIとかに取って代わられるかもしれない、という現実に直面します。AIじゃないにしても、実務家教員に取って代われる日は近いでしょう(笑)。現実問題として、労働法で守られているからいいやっていう次元とは別に、仕事はできるヒトのところに集まり、そうでないヒトには最低限の仕事しか残りません。最低限の仕事しか与えられなくても、人間関係だけで楽しく仲良くやれるヒトもいます。ミスっても別なヒトが否応なしに助けてくれるし、余暇が大事だから仕事でどう思われるとかは関係ない。楽してお金だけ貰えればよい、っていうヒトは意外とたくさんいます。そんなヒトばかりになったら、たぶん、その会社や日本の国としての競争力はなくなっていくでしょうけど、それも仕方ない。会社には中途採用者もいるから、それでバランスを取るのかもしれないですね。

僕は、余暇や仕事について、上を見ても下を見てもキリがないって思っています。目の前の仕事に全力を投じて、今の最善のものを提供する。それで余った時間が余暇。幸い、僕はフレックススタイルの労働環境なので、いつ休んでもどのくらい休んでも構わない。その代わり、休んだ後には仕事はないかもしれない、そういう世界です。

何をしてお金を貰いたいか、それが就活における「究極の自己分析」だと思っています。余暇と仕事のバランスを考える前に、どうやってお金を稼いで生きていくのか、行きたいのかを一度考えてみてください。「専業主(夫 or 婦)」になるのでもいいですよ。でも、誰かのためだけに働いてお金を貰うのは嬉しいものです。バイトでは味わうことのできない感覚、是非、インターンとかで獲得して欲しいです。

僕は仕事も余暇も大事にしていますが、それでも、いきなりそのバランスが一番大事、だとは思いません。好きなことをしているから、バランスよりも大切なものがあるのかもしれませんね。

皆さんにとっての余暇と仕事、どんなものでしょうね?


(Photo taken at the Ayame Festival, in Itako, Ibaraki, in June 2018)

2018年6月8日金曜日

「公共政策と法」の第9回に寄せて

青学の「公共政策と法」という講義で、第9回目に法律と条例の関係について話しました。公共政策の話は、普段から別な大学院でしているのでどうっていうことはないのですが、「受動喫煙」という最新のトピックを取り上げたので、緊張して話しました。

僕にとって1時間半はあっという間。学生にとってどう感じたのかはわからないけど、久しぶりに緊張しながら話しました。講義では緊張よりも楽しさを感じることが多いので、新鮮な気持ちでした。

法学部は、ルールと事実を扱い、自分の側に有利な結論を探し求められる知識を得る場所。それを再認識して欲しくて、あのような講義にしました。答えは簡単に出るようで出ない。1つだけの答えを出す公式もありません。そういう意味では、高校生までに受けたどの科目とも違います。また、法学部を出たら、必ずしも裁判官のように中立な立場でルールと事実を眺めるわけではない世界で、僕らはこれから生きていくことになります。どう生きていくのか。それを、最新のトピックを使って話しました。

法学を好きになるには、理系とは違うセンスが少しは必要です。理系のヒトは、1つの変わらない答えがあるから面白いって言いますね。その答えを世界で誰より早く見つけ出したい、それがどんなに小さな問題でもって聞かされます。法学の世界は、答えがあってもそれを切り崩すような事象が絶え間なく起こりますから、答えを知って喜んでいてもそれほど意味はないんです。むしろ、新しく起きている問題についてどんな問題なのかを捉え直し、既存のルールを適用するとどうなるのか、それで望ましい結論なのか、ダメなら別なルールを考えられるか、別なルールにはどんなものがありうるか、そもそも別なルールが実際に作られる可能性はどのくらいあるのか、ないならどうするか、そういう思考回路がより重要だと思います。別に官僚じゃなくても、ビジネスの世界で活躍していても大事です。規制の全くない世界でビジネスをすることなどほとんどないので、どんなに新しいビジネスを考えついても、常に規制の適用可能性を考えておく必要はあるからです。

アメリカ法の担当者が戯言として語ったように思われたかもしれませんが、僕なりに時間をかけて準備して話しました。少しでも法学や公共政策と法に関心を持ってくれる学生が増えてくれることを祈っています。




2018年6月7日木曜日

小林麻耶さん『いのちの授業』@青山学院大学 in Apr. 2018

青山学院大学法学部では、去る2018年4月27日(金曜日)、本学卒業生である小林麻耶さんを特別講師としてお迎えして、「いのちの授業」をしていただきました。




「いのちの授業」は、いのちの大切さや献血を学生に訴えかける特別講義です。
この特別講義では、小林麻耶さんからご自身の大学生活を交えながら、献血の重要性に加えて、大学生活と自分の将来の生き方を考える意味を教えていただきました。





この特別講義の開催にあたっては、小林麻耶さんとそのスタッフをはじめとして、法学部教務課の方々、大学スタッフの方々、そしてゼミの有志から多大なご協力を賜りました。改めて厚くお礼申し上げます。



 
 小林麻耶さんの特別講義は、大学では決して聴講できないお話でした。今、生きていることの奇跡や人生を改めて考えさせられました

 今回、いのちの大切さや献血の重要さを再確認できたことは、医療と法を考えるこのゼミにおいて、ディスカッションや分析をさらに充実したものにしてくれるものと思います。実際、ゼミの学生は、「生」と「死」について以前よりも真面目に考えるようになりつつあります。さらに、アナウンサーとしての立ち方やお話しの仕方も本当に勉強になりました。







二度と聴けないかもしれない「いのちの授業」を、小林麻耶さんの母校である青山学院大学で直接受けられた喜びを忘れずに、これからのゼミを進めて行きたいと思います。

関係者の方々、本当にどうもありがとうございました。


(All photos by 伊ケ崎 忍)




2018年6月6日水曜日

クライアントのいない世界での議論を早く離れてみては?

講義でもゼミでも、法学部で議論していると、自分が裁判官みたいに、さも中立的に結論を出すことが多いですね。債務不履行ありなし、損害賠償責任ありなし、違法性ありなしなどなど。でも、そんな議論はあまり使えないんです。裁判官になるならまだしも、普通のビジネスの場面では、中立的に法令を扱うことや判断することは極めて稀だからです。

昔、ある大学院の講義で「先生は誰の味方なんですか?」と真顔で聞かれたことがあります。僕は、「誰の味方でもないというか、誰の味方にでもなるよ(笑)」と答えました。「雇われし銃」というと語弊があるけれど、僕はクライアントの最善の利益のために議論するだけです。法律問題に絶対的な答えは、たぶんないので。

中立を装っていても、中立になり得ないという問題もあります。僕は、青学に雇われていて、青学にとって不利益なことは言いにくいですから(笑)。私学助成金の話も、あまりしたくないし、非常勤先との関係で文科省に関連する話もあまりしたくない(笑)。

ゼミとかで何かの活動をする時も、僕なら常に考えてしまうんですよ。誰のためにやっているのか。自分のためにヒトを巻き込んでいるだけなのか、それとも誰かのためにやっているのか、についてです。誰かのためにやっているなら、その人がすべての判断基準を握っていることになる。その人の利益だけを考えられるかどうか、という問題ですね。僕は、自分のための話については、約因ベースで議論したいし(Win=Winになるような形でディールとして)、そうでなければ物事として前に進めたくくないですね。

就活になれば、急にクライアントのことを考えさせられます。法学部にはぜんぜんない発想が要求されるということです。中立的にいいとか、悪いとかいっていても始まらない世界です。あなたがいいとか悪いとかは、あまり関係なくなります。ある会社や組織に採用されたいとして、その会社や組織のクライアントは誰か、何を提供できるのか。少なくとも、その会社や組織の利益が何で、どうやってその利益が生み出されるのかを知り、自分の強みを選考までに磨き上げる。そのくらいの準備はしてもいいですよね。本気で行きたければ、ですけど。

僕ら法学部の人間の武器は、ルールと事実を扱い、自分や自分が雇われている組織に有利な議論を展開したり、説得力のある文章を書くことくらい。数字にも強ければなお良いけど、それは経済学部や経営学部に劣るかもしれない。歴史、文化、心理学についての知識を持っていれば、もっともっと有利な交渉やコミニュケ―ションができるかもしれないけど、それは文学部、教育学部、総合文化政策学部に劣るかもしれない。国際政治も知っていれば国際交渉や政治を巻き込む場合は有利だけど、それは国際政治経済学部に負けるかもしれない。それでも、どんな組織でも会社でも、必ずルールを扱います。事実やデータを扱うんです。それを使って利益をもたらすために、法学部生ができることは多いはずです。他学部に必ずしも負けるとも劣らないはず。

もうそろそろ、クライアントのいない世界で議論するのはやめません?そうしたら、法学はもっともっと面白くなります。それは、医療と法の分野に限られません。

法学部生であることの意味を考えてみませんか?法曹になるにしても、クライアントのいる世界の発想は大事ですよ。

2018年6月4日月曜日

謝罪の極意は難しい?

最近、謝罪会見を見かけることが多くなりましたね。しかも、弁護士同伴の謝罪会見がとても増えました。法律家は、謝罪でも活躍できるってことですね。

謝罪では、事実の把握、事案の性質付け(よくある一般的な話なのか特殊なのかなど)、原因の分析、対応(すでに暫定的にとっている対応と今後取りうる対応)、謝罪の有無、今後に向けた前向きなメッセージをどう盛り込むのか、服装などなど、たくさんの点が問題になります。すべてではないにしても、法律家の腕の見せ所がたくさんありますね。

最近の流行は、もちろん「第三者委員会の設置」。この委員や委員長に選ばれやすいのも、法律家です。どうしてかといえば、日ごろから法令を含むルールの取り扱いに長けていて、しかも事実の当てはめにも慣れている上に、事件の結末について相場観を持っているからです。和解すべきなのか、全面的に非を認めるべき事案なのかそうではないのか、今後の対応としてどんなことをどんな順序で、どのくらいのスピード感(期限)で実施していくのかが問われています。

謝罪は、辛いし大変ですけど、大人になると、自分が悪くないのに怒られることばかりですよ(笑)。怒られ慣れるくらい、僕も毎日のように怒られました。大事なのは、お叱りを受けた後です。何が悪いのか、それを上司やクライアントにどう伝えて、是正措置も含めてどうやってご納得いただくのかは、今後にとって非常に重要です。弁護士じゃなくても非常に役に立つ技術です。

ゼミでは、謝罪会見を開いてみる会を必ず設けています。意外と面白いんですよ。
言葉1つの使い方もそうですけど、そもそも、同じ事案で責任を認めるのか認めないのか、
認めるとしてどのように記者会見で話すのか、グループによって色が出ます。

実際には、組織として一定の方針が示されたうえで謝罪会見に臨むことが多いので、自分なら謝るのに謝らない形になったり、その逆もまた然りです。

謝罪の極意はゼミだけでは学べないですけど、謝罪は人生にとって大事です。
是非、少しでも上手くなって卒業してください!






2018年6月3日日曜日

ゼミや講義の価値って何だろう?

ゼミや講義の価値って何だろう。なかなか答えられない問題の1つです。

授業評価を読んでいると、出席しなくても単位を取れたらそれでいい、と書いてあることが多いです(笑)。それってある意味当たり前で、教科書を読んで丸暗記すれば、パスはできますよ。僕らは、教科書を丸暗記してもパスできない試験問題を出題するわけにはいかないので(笑)。

楽で、単位が貰えて、就活に少しでも効果的なのがベストなら、それなりに名前の通った(ないし経験豊富な)先生のゼミに入ればいいでしょう。講義なら、重鎮の講義がいいですよね。教科書ベースだし、新しい話も出てくるわけもないし。

あまり書けないですけど、僕は、無理矢理に学生を出席させる活動にほとんど価値を感じません。唯一の例外は、聞きたくなるようなゼミや講義を提供すること。それ以外の活動には意味があるとは思えないんです。もちろん、僕らにはそういう内容のゼミや講義を提供する具体的なインセンティブはないけど(笑)、義務でしょうね。

講義について言えば、出席して真面目に聞いてたら試験対策しなくてもパスできる、そのくらいじゃないと講義を聞く意味はないです(教科書を読んで暗記する時間の省略)。あとは、単に試験のためだけじゃなくて、現実の世界で起きている事象の見方が変わる、そのような講義じゃないと人生の限られた時間を振り向ける意味は無いかもしれない。僕はそう思っています。

ゼミは特殊ですね。青学では、というか法学部では、AKBの総選挙並みとは言いませんけど、ゼミが人気投票のように扱われています。正直、毎年、心苦しいです。一生懸命やっていても、人気があるゼミもあればそうでもないゼミもある。究極は、ゼミ生が満足してくれれば良いので、毎年のゼミ生に合わせて内容を変容させていくことになりますけど、基本的な路線って何なのか。

僕のゼミでは自由がモットー。「華麗なるギャッツビー」のパーティーが好例ですけど、自由な楽しみ方ができます。プレゼン力を磨き上げてもいいし、医療分野を例に極限まで法学のセンスを磨いてもよいです。合宿とかバーベキューとか、課外活動に精を出すのもあり。はたまた、行きたい会社に入るためにネットワーキングするのもありです。基本のゼミの時間に全力を注いでいる限り、いろんな楽しみ方、時間の過ごし方があってよいのが僕のゼミ。

「大学で無駄な時間なんて要らない。法を使って人生を楽しめ」

僕なりに考えると、こんな感じですかね。
ゼミ生が感じるモットーは、違うかもしれないですけど。

2018年6月2日土曜日

話さないことに価値がある?

ゼミでプレゼンをしてもらっていると、考えたことをぜんぶ話しちゃうグループや個人が多いのに気付きます。ぜんぶ話しちゃうと、他の部分が弱くなる、注目されなくなるって知ってますか?時間が限られている場面では、ぜんぶ話すのは禁物です。相手からわざと質問させて、それから答えるような形のプレゼンの仕方をぜひ覚えてください!

(ちなみに、交渉でも沈黙の時間は大事って教わります。意外と。)

プレゼンは、これまで皆さんがゼミや授業などでしてきた「発表」とは違います。レジュメにまとめた内容をぜんぶ話したり、調べてきたことをぜんぶ説明してもあまり意味はないです。重要なのは、より大事な部分を説得力のある形で伝えること、聞いて貰うことです。長く話せば話すほど、相手の集中力は落ちていきますし、何が大事なのって思われてしまうのです。

たとえば、他のグループと同じ話は、他のグループに任せてしまえばいい。二度も三度も同じことを話してもインパクトはないし、聞いても凄いとは思えません。むしろ、似ているけどここが他のチームとは違う、そういう話し方が大事だと思います。

僕は、元官僚の上司と今でも働いています。事務次官になれなかった方として有名なのですが、その昔、一言で要件を話せ、と教わりました。あまり直に教えて貰うことはないのですが、教えて貰った数少ない事項の1つです。ただの報告なのか相談なのか、それとも意見なのか、上司に何か頼んでいるのかをはっきりさせてから、事案を説明しろというわけです。今では当たり前ですけど、大学院で勉強していたときにはそういう話し方はぜんぜんできませんでした。

プレゼンは、正直、考えているほど簡単ではないです。いきなりできる、という代物ではない。だからこそ、基礎をしっかり身につけて欲しいです。あとは、自然に、自分の個性を駆使して上手くなりますから。上手くなると、漏れなくダブりなく(MECE)と、端的に伝えるというのが同時にできるようになりますよ。

もう、ただいたずらに話すのは止めません?
発表じゃなくてプレゼンをやってみましょう!

(Photo taken at Fukiware Fall, in June 2018)