2020年4月28日火曜日

本気で臨めるか?

本気を出して負けると悲しいし辛いから、ヒトは全力を出し切れないことがあります。授業もゼミもそう。全力を出して上手くいかなければ、凹みますからね。なら、最初から8割ないし7割で臨む。そういうやり方もあるのかもしれない。恋愛は特にそう。振られたら、傷つくし(笑)。

皆からすれば、講義やゼミに上手いや下手なんてないのかもしれない。そんなのどうでもよくて、単位を取れて、友だちと一緒に楽しければOKなんだろうな、とも思う(笑)。それでも、これは僕の「売り物」なんです。研究してればいいんじゃなくて、お金貰って提供している以上、一定水準以上で、満足してもらいたいとは思うし、他の誰より上手くやりたい、そう思っています。無駄な努力なのはわかっていても、ね(笑)。

オンライン講義のテストを終えて、ようやく、青学でも講義がはじまりますね。ワクワクする一方、上手くできるのか不安もあります。もちろん、他大ではすでにオンライン講義がはじまっていて、そういう意味での緊張はないんですけどね。

プレゼンもそう。最初から全力を出せないと、相手を知り、戦略を練ってきてもぜんぶ無駄。現場がすべて。準備が良くてもぜんぜん意味はない。It's a showtime! その場を楽しめるくらい、全力で臨めるように訓練しませんか?感情を移入して、目的のために話す。そうすると、棒読みには決してならない。プレゼンは、セリフの読み上げじゃないんです。伝えたいことを伝え、理解してもらい、できたら自分の側に振り向いてもらう。自分に有利な結論を選んでもらうプロセス。一方的なものじゃなくて、間合いがある。(実は、講義やゼミも同じで、毎回、毎年同じようにやろうとしてもできないんです。

法学部では、この中に法的なパズルが加わる。どうやったら法的な理論構成やエビデンスで相手を納得させられるのか、そういう視点が加わるから、他学部よりも一段上のプレゼンになるし、面白いんだけどな。とくに、リスクがある世界の話ではなおさらそう。普通のプレゼンは、どこの学部でもやるけどね。

青学では5/4が、僕にとっての初授業。それまでには、全力で臨めるように、準備しておきます。

2020年4月27日月曜日

プレゼンしろと言われたら

皆さんならどうします?授業などでプレゼンしていても、ここはあまり注意が払われていない。でも、最も大事な点を忘れてはいけないんです。

まず最初にすべきは、プレゼンの相手を想定すること。具体的にです。自分の売り物や情報も大事だけど、まずは相手を具体化する。これを無視すると、プレゼンは終わり、無駄です。実際の相手がいるなら、そしてある程度の時間があるなら、相手をプロファイルする。そのうえで、プレゼンの戦略を練ることになります。逆に相手がまだいないなら(そして、こっちの方が多いんだけど)、想定します。具体的に。たとえば、家を売るなら、何歳、性別、家族(子どもの有無や人数)、収入、ライフプラン、転勤の有無、実家との関係などを想定してみる。こういう想定から、相手が何を期待していて、自社のどんな点を評価しており、どこを不満に思うんだろうか、最後に購入してもらうにはどんな情報をどんな順序でどのように話すのが良いか、そういうふうに考えていくわけです。

目の前の相手にモノやサービスを売るのではなく、想定された人向けのプレゼンをする場合、おそらく、2通りありますね。1つは、今、自社がどちらかというと売り上げを上げている対象へのプレゼンなのか、逆に自社が苦手としているような対象へのプレゼンなのか。後者を選べばリスクは高いけど、まあ、上手いプレゼンを考えたら評価されますよね。前者なら、自社をある程度評価してくれる方へのプレゼンになるので、評価点をさらに高め、不利な点を補うようなプレゼンになる。オーソドックスに言えばです。後者は、そうはいかない。そもそも、自社より他社を好む人へのプレゼンになるので、相手に見えてない価値を提示して、なおかつ他社に見劣りする点をケアする必要がある。このセグメントのヒトは、何を重視しているのか、その結果、どんな買い物をするのか、何に満足を覚えるのか、そういう分析が必要ですね。

要するに、プレゼンには無味無臭はあり得ないってこと。甘い香りの香水か、すっきりした香りの香水か、ブランド物かそうでない物かなど、個性が出てきて普通。それは、営業成績を上げるためには当然。他社と差別化し、自社の製品やサービスを売るんだから当然ですね。法学部でやるプレゼンや弁論は、はっきり言って無味無臭。誰がやっても、誰が聞いても同じだもん。それは、プレゼンじゃない。外に出てから絶対に通用しないんです。

法律を学ぶと、理論構成ばかり気になる。法令の何条か、要件を満たすのかどうか、証拠をどう使うか、どう見せるか、どう話すか、そもそも、誰に向かって話しているのかを無視していることが多い。レポート書くときもそう。誰に向かって、誰のために書いている?そんなこと、あんまり意識してないですよね。きっと。

ここに書いてあるのは当たり前のことなんだけど、法学部では絶対に教えないんだよね。それは、プレゼンする機会がないからなんだと思う。教員も学生も。相手次第で、話し方や見せ方は大きく変わるけどな。本当は。

忘れちゃいけないのは、プレゼンは、売り物や売るサービスそのものじゃないってこと。プレゼンの良さは、結局、売れてなんぼです(笑)。だからこそ面白くて、いろんなアプローチがあるんだよね。相手次第、自分次第で。ドラマ、「家を売る女」とかでは、それが綺麗に示されれて面白いです。就活終わるまでは、「素」でもいい。その方が評価されることもあるし、「素」だけでよい評価を得る人もいる。でも、就活の先の世界では、結果を出すのは意外と大変ですよ。素だけでは、結果は出ない世界、いち早く見てみてください。

2020年4月26日日曜日

心が疲れたら

空を見上げるようにしています。法律を学んでも、誰かや自分の心を癒せるわけじゃないし、僕らができることってあんまりないですよね。ゆったり、自分が支配できない世界、たとえば雲や星の動きなんかを見ていると、落ち着きます。ああ、どうしようもないことってあるよねって。

普段、法律の話ばかり書いているけど、今日は、心の話にしたいんです。僕自身が、少し、心にぽっかり穴があいたみたいになっているから、ではないんですけど(笑)。新型コロナでうつ病になる人もいるみたいですし、少し話題を広げようかと思いました。

講義中は、約束は破られるとか、契約を破る自由とか教えてますけど、まあ、辛いですよね。約束や信頼が裏切られたら。そりゃ、裏切られる方にも非があるかもだし、悪いんだろうけど。でも、大事なのは、破られた方に金銭的な価値に換算できない損害が残るかも、っていう現実です。契約違反の場合、普通は代替物を手に入れられて、損害も金銭換算できることが多い。他方、心の場合、金銭換算できないのが普通(日本なら慰謝料は一応あれど、そういうのじゃなくて、苦しいとか悲しい思いは消せないし、心の代替物なんてない)。もちろん、破る方も心の痛みはあるのかもしれないですね(笑)。破られた方にはわからない痛みや苦しみが。

破られない約束や契約がないからこそ、一緒にいられる、一緒に行動できる時間はとっても貴い。そして、約束や契約が破られたら仕方ないんですよ。前向くしかない。時間は戻せないし、破った人を非難しても何にもならないし。後悔先に立たず、ですよね(笑)。ああ、約束しなきゃよかったとか、契約しなきゃよかったなんて、言っても無駄なんです。

ヒトとヒトでいったら、出会ったら別れ(最後は死別)が予定され、別れたらまた新たな出会いがあるのかもしれない。約束や契約が破られた時には、先のことなんて考えられないくらい辛く苦しいかもだけど、時間は止まらない。必ず進みます。嫌でも前に進む。そんなときに、空を見上げてほしいんです。雲や星が移動すると、時間が流れているって気づけます。同じ場所に留まれないんだなってことも分かりますよ。

法律を学んでいても心は癒せないですけど、騙されにくくはなるかな。そして、約束や契約を破られても、被害を最小にする術は身に付きます。もっとも、それでも心の痛みは消えません。消えない損害、心の痛みや苦しみ、その存在を知っているかどうかで、ヒトの魅力は格段に変わるんじゃないかなって、僕は思っています。約束や契約、破られたら破られただけ、強く、魅力的なヒトになれるかもしれませんね。

(With great memories forever, even though we sometimes face breach of promises or contracts. )

2020年4月25日土曜日

弁護士資格がないとできないことはあれど・・・

法学部を出ても、弁護士資格を得ることはできませんね。それなら、予備試験の勉強をした方がいいかもしれないし、そうでなくても、ロースクールに入るための勉強をした方がいいのかもしれない。それはそう思います。法学部ってやっぱ意味ない?法学は死んでる?そういうことが言いたいんじゃないんです。僕が言いたいのは、法学部の本質は別にありそうだということ。

SUITSというドラマ、見直しています。それ以外のリーガルドラマも見直しているんですけど、NetflixにおけるSUITSの説明文が秀逸。Netflixでは、「弁護士に必要な条件とは、賢く、機転が利き、弁が立つこと。それさえあれば、弁護士資格は必要ない?」って書かれています。イケてる。

弁護士資格がないとできないことって、ありますよね。非弁活動は厳禁です(笑)。弁護士法違反になる。でも、それ以外は別に禁じられていない。他方、弁護士が持っている能力って賢くて、機転が利いて、弁が立つだけなのかな。

僕は弁護士じゃないけど、普通に頭が良くても、良い弁護士って言えない気がします。賢くて機転が利いて弁が立っても、僕はそれだけじゃ雇いたくない。それは、信頼感の問題であるし、やっぱりセンスかな。頭良くても勝てない事件はたくさんあるし、処理の仕方は過去の事例が教えてくれるわけではない。目の前の事件を上手く解決するために最善を尽くせる人って、あんまりいないんだなぁ。皆、ふりはするけど。

表面的にみると負けそう、自分側に非がありそうなんだけど、全体をみたらやっぱり変、そういう時に、頭のいい弁護士は「まあ、不利ですね、厳しいかも」って言うでしょう。それは間違いじゃないんだと思うんです。僕が大事にしたいのは、そう、表面的にはそうなんだけど、やっぱり変かどうか、このままじゃダメかどうかっていう判断が付くかどうか、なんです。ドラマ、「グッドパートナー無敵の弁護士」では、この点が強調されてましたよね。

法学部を出た後、別に弁護士にならない人は数多くいます。その人たちにとって、本当に大事な能力は、もっともそうに言われている情報が法的にみて妥当なのかどうかの判断が付くセンス。世間は真逆に言っていても、やはりいいならいい、駄目なら駄目って考えられる力。判断できたら、その次に必要なのは、もし、その判断が所属先とずれている場合の対処能力かな。所属先によって、いいというべき時と、駄目というべき時がある。本当は駄目と言いたいのに、所属先のせいで駄目と言えない、いいと言わなければいけないとき、あなたはどうします?そんなことは、弁護士は考えないし、考える必要もない。弁護士として、駄目だと思うって言えばいい。でも、資格のない僕らは、そう簡単には言えないんです(笑)。僕らは、なんで駄目なのかを会社に説明するか、または、いいというにしてもある程度の手続きを踏んだり、警告をしたり、一定期間後に見直しをするなどの対策を講じるくらい、ですかね。最後の結末について複数の可能性を予測できなければ、こんなことはできないです。

法学部では、組織の中で法というか、あらゆるルールを駆使できる能力を学ぶ。そこでは、別に法的な知識だけじゃなく、あらゆる知識が力になるんじゃないかな。

弁護士になるかならないかにかかわらず、法学部で勉強しません?少し真面目に。
きっと、あなたの将来を変えますよ。もちろん、よりよく。



2020年4月20日月曜日

What is going on in this special situation?

授業開始が遅れて、皆が対応に追われていますけど、法的にはとても興味深いことが起きています。医療と法のゼミにとっては格好の材料がたくさんある。政府や都道府県知事が行う様々な政策の根拠、探してみたことありますか?侵害留保理説を採用すれば、法律がなくてもできることはもちろんある。たくさんある。でも、実際のところどこまでの行為が、法令の根拠なしに行われていて、どこから法令の根拠ありで行われているのか、調べてみたことありますか?

自粛要請は、あくまでお願いであり任意に従われるものだから、「国民の自由」や「財産」を侵害する行為でない。形式的にはそのとおり。でも、さまざまな経済活動は制限され、お金を稼げず、事実上苦しい生活を強いられる人々は多い。それ以外の選択肢が事実上ないのに、自発的に、任意に従ったと言われてしまう。その上、自粛要請で不十分なら、政府としては罰則付きの法律を制定するのみ。繰り返しゲームで考えたら、最初から自粛要請をある程度受け入れておくのが最も賢い、でしょうね。罰則付きでも、罰則なしでも、国民がやることは結局いっしょなのだから。こうやって考えてみると、行政法の最も基本的な考え方「法律による行政の原理」は簡単に形骸化してしまいます。とくに、事前に対応のための立法が行われていない場合に今回のような緊急事態が発生すると。

僕が政府の人間なら、公益のためにぎりぎりのことはなんでもやりたい。侵害留保説では何ら問題ないのだから。人命を救うために、一定の制約は公共の福祉に適う。だから、賠償責任もないだろうと。実際、今のところ結果は悪くないわけだし。

でも、一般市民の立場なら、法律って意味ないんだなって痛感する。法律を通しても通さなくても、経済は事実上制限され、多くの人が苦しんでいる。結果、多数の自殺者が生まれても、侵害留保説では全く問題なく、特措法上の緊急事態宣言後の話はなおさら違法性はない、果たしてそう言えるのか。適切なプロセスで判断され、その判断が合理的なものかどうか、それが究極的には問題になりうる。

法律を勉強していても、今起きている事象を分析し、改善する方法を発見し、他人に説明できないなら、あまり意味はないかなって、思いません?世間みたいに、ただただ批判することはできる。誰にでも批判を向けることができる。でも、政府がなぜ、ああいう方法で何かしらの政策を行うのか。僕らはその根拠を、ちゃんと調べてみたい。法学部じゃないなら、法的な観点を無視して批判すればいいけど、僕らは法学部なのだから。

2020年4月11日土曜日

法学の「死」(6)第4講ー裁判の基準で大事なのは?

法学入門の第4講は、正直、読むのが辛くなる。そうだよね、とは思うけど、学生が読み進めてくれるかは不安極まりない。シンプルで、とても分かりやすいのはよいのだけど。

僕が思うのは、制定法以外にも法源はあり、とくに判例法は重要。最高裁判例がない場合こそ、僕らが勉強すべき。最高裁判例がある場合、原則として最高裁判例に支配される。他方、最高裁判例がない場合、そうでもない。自由度がある。この自由度の中で、自分のクライアントに有利なルールを発見できるかどうか、それが一番面白い。

それに、仮に最高裁判例があっても、事案が異なれば、射程外になりうる。射程内か、射程外か、その判断は最高裁が決めるわけだから、自分のクライアントに有利になるように、射程内と射程外を使い分ければいい(最後は、最高裁が決めるけど)。法学入門では、ミカン園のミカン売買に関する1916年大審院判決がりんご園のりんごや梨園の梨、桑畑の桑の葉にも適用できるというし、桑の葉については判例(1920年大審院判決)もあるという。そうかぁ、まあそうだよね、と思うけど、りんごや梨はまだ明らかではない。最高裁は無言だから。別な結論が欲しければ、議論せざるを得ないってことになる。そこの未解決の部分こそ、法学部で検討すべき面白い点。

暗記は大事だし、一定の範囲では必要ですけど、より大事なのは裁判の基準を考えること。もっと言えば、(有利な)基準を作り出す議論を考える能力を養うこと。

制定法と慣習法との関係や、条理の関係を覚えるのも大事だろう。それでも、もっと大事なことがあるし、面白いことが法学部では学べますよ。


法学の「死」(5)第3講ーヒトによる裁判の意味

法学入門の第3講、法と裁判は、凄く綺麗にまとめられていて、コメントしにくいです。ただ、これを読んでも、法律を学びたいって思える学生は稀でしょう。

裁判は、ヒトを中心としています。証拠はヒト(証人)よりモノ、を重視するかもしれませんが、ヒトに依存して成り立っています。弁護士、検察官、裁判官。ぜんぶ人ですね。どんな人でも間違えるのに、裁判官には司法権の独立、自由心証主義が認められている。AIに任せた方がいいんじゃないのって思う学生がいてもおかしくない。

AIって、間違えないんじゃなくて、確率論でしかものを言えないんです。何%の確率で○○、△△、◇◇、っていうだけで、有罪とか無罪とか、違反があるとかないとか、損害賠償額をスパッと決められるわけではない。確率論的に、いくらからいくらまでの間。そういう言い方はできるかもしれないけど。

要するに、AIって、裁判をサポートできても、裁判自体を決着させにくい技術とは言えます。もちろん、むりやり決着させようとすれば、できなくはないですけどね。逆に、裁判支援に限定して使うと、裁判官に一定のバイアスを与えるので、裁判官の自由心証主義には抵触するかもしれません。裁判官は、すべてを見通す力があるから、別にAIに支援させてもいいっていう考え方もあり得ますが(笑)。

皆さんは、AIに裁かれたいですか?僕は、間違いがあってもヒトに裁かれたいです。ヒトとして弁論し、ヒトに評価されて、それで裁かれたい。民事でも刑事でも。間違えはするでしょうけど、それでもヒトがいい。ゼロ・イチの確率論や見えないアルゴリズムより、義理・人情やいわゆる見えないロジックに身を委ねたいんです。

あとは、間違えるって分かっているからこそ、自省的に法律問題を扱えるんじゃないですかね。学者は、常に間違えない前提でいますけど、いや、間違えますよ。必ずヒトは。

こうやって考えてみると、第3講の法と裁判の部分も、何となく、少しは面白くなりませんかね。ヒトが法を創り、ヒトが裁判の中心にいる意味、結構深いと思いませんか?

雨のち晴れー視点を広げる

ミスチルの歌じゃないですけど、雨のち晴れって、凄く大事。短期的にみると、凄く悪く見えても、中長期の観点から見れば、まだマシかもしれないし、逆に先はもっと明るいかもしれない。就活の最中は、こういう感覚を常に持っていてほしいです。

僕は、出張の時以外には草木に毎日水を遣っています。草木って、水の吸い込み方が毎日少しずつ違いますし、葉や花の元気も違うんです。ちょっと弱ったかなと思って栄養剤を使うと、実は草木は弱ってしまう。のんびり、草木と対話っていうとポエティックですけど、目の前の現実を大事にしたいと思っています。

今朝なんか、突然、道を歩いていたらハトのフンが落ちてきました。幸い、ギリギリで当たらなかったのですけど(笑)、そのあと車に轢かれたら、きっとハトのフンを浴びて、立ち止まり、事故を回避できた方がマシだったって思うかもしれない。車にも轢かれなくて済んだので、今日は幸運でしたが。

雨は必ず止みます。早く止むときもあるし、長引くときもある。少し考えたら、雨がない世界も困るってわかる。少し、視点を広げて毎日を過ごしましょう。

2020年4月10日金曜日

オンラインで話すのは難しい

非常勤先では、Zoomを使ったオンライン授業が始まっています。青学は、5月から「Webex」を使うみたいですけど、まあ、大変ですね(笑)。少なくとも、僕は難しいなって感じています。英語でやるのはなおさら難しいかな。会議とは違うし。決まったことをただ話すだけなら、こんなに楽ちんなことはないんですけど。

インタラクティブにやるだけなら、別に、普通の講義よりもやりやすいですが(名前が示されているし、ある一人をパッと当てやすい)、伝えたいことを伝え、理解してもらうのが難しいんです。チャットが入るし、手を挙げる人もいるし。番組のMCってこんな感じかも。シナリオ、僕なりのはあるけど、ぐちゃぐちゃになっていくので。

就活でも、Zoom等のオンライン会議ツールが活用されそうなので、皆さんには早く慣れてほしいですけど、その前に僕が駆使できなきゃなぁ、と。

何事も慣れという部分はあるので、Zoomなどを使って、早くオンラインでの会議やグループディスカッションに慣れてほしいです。

こんな機会でもなければ、Zoomとかを学生時代に使うことはなかったかもなので、是非、頑張りましょう。僕は仕事として、頑張ります。

(A photo taken at Ginza area)

2020年4月4日土曜日

Only one experience we could have for life

こんな経験をするのは初、人生でこれっきりかも。多くの人が傷つき、苦しみ、亡くなり、法令の専門家でさえ対処に苦慮する事態が目の前にあります。こんな状況下で、法律を学べるのは間違いなく貴重です。なぜかって言えば、「法の無力さ」を痛感することができるから。法が無力だからこそ、僕はらはその無力な法をよりうまく使う方法を学ぶ。無力な法でも、使い方次第では人が傷つきますし。

法律を学んでも、別に何も変わりません。資格が得られるわけではないし、賢く生きれるわけでもない。僕らが知るべきは、法には欠缺がたくさんあって、無謬ではありえず、しっかりつくっても上手く使えないという現実です。法学部生は、誰よりも早くそのことを知ることができます。裁判をしても勝てない、仮に勝ててもなんの足しにもならない。そんな現実を知るんです。

新型コロナウィルス感染症の関係でいうと、法令があっても人の命って救えないんです。救うのはヒト、医療従事者。もちろん、感染の拡大を遅くしたり、拡大を防いだり、感染した方の隔離や治療を支援したり、物資を調達したり、そういうことは法令にもできます。でも、亡くなった方を生き返らせることは当然としても、感染者の方々を治してあげられるのはヒト、だけなんですよね。

昔、少し大掛かりな検査を受けた時に、大学病院の先生がおっしゃってました。医師は病気を治そうとできるけど、お金がない患者さんを救えない。それは、法律を勉強している人に何とかしてほしいよって。今思うと、法律勉強しても、お金がない患者さんを十分に救えていないし、この状況下では、お金がある患者さんさえ救えていないんです。パンデミックのもとでは、日本の健康保険制度は他国よりはましかもしれないけど、それでも、十分には機能していない。たくさんの保険料と税金を投入しているのに、です。

未曽有の危機を経験した人とそうでない人なら、ぜったい、前者の方がよりよく生きれます。不謹慎な言い方になるけど、ピンチであればあるほどチャンス。そう思って前向きに行動しましょう。

Right timing, words, and actions

志村けんさんが亡くなられましたね。心からお悔やみ申し上げます。なぜなのか、志村さんの生い立ちを調べたりしていました。小さいころから身近に感じていたコメディアンなのと、自分の父親と同い年だからかも。

法律問題に答えがなければ、より正しいタイミングに、より正しい言葉で話し、より正しい行動を行ったり、相手を導かないと、自分の期待する結末を作り出すことはできないです。法学部では、そういうことは普通学べないけど、これが真実です。

実は今日、2020年4月3日(金曜日)は、国立ひたち海浜公園が一時閉園する前の日でした。公表されたのは4月2日、そう、昨日なのです。ネモフィラが咲く「みはらしの丘」は5分咲きで、これから満開になるところでしたが、来客を待たずに閉園となりました。もちろん、新型コロナウィルス感染症対策のために。休日の混雑を考えれば、仕方ないのかもしれません。屋外でも、密集は避けなければいけないですし、なにより、国立の公園なので。

何もしなければ、一時閉園の時期も事実も知らないままでした。でも、たまたま今朝、知ることができ、僕は見に行くことにしました。平日で、「密閉」、「密集」、「密接」のどれも当てはまらないので。

みはらしの丘には、明日から閉園になるのに作業している方々が多くいらっしゃって、ネモフィラを育てたり、雑草を取ったりされていました。五分咲きと言われているネモフィラは、とてもきれいに見えました。おそらく来年まで、もう見られないからです。

チャンスの後ろは禿げている、という言葉があるように、チャンスはそんなに転がっていないです。今しかない瞬間を逃さずに、正しい言葉で、正しい行動を。それはなかなか難しいですけど、訓練することはできます。志村さんは、どこでどうすれば笑うのか、きっと知っていたんでしょうね。計算しつくされた笑いがあったのかな、と今更ながら思います。子どものころは、何も考えずただ笑ってたけど。

コロナウィルス感染症対策が功を奏して、感染拡大が止まることを祈って。













(@Hitachi Seaside Park, on Apr. 3, 2020)