2018年7月18日水曜日

判例や学説を覚えるだけでは、実はほとんど意味がない?

法学部では、たくさん暗記することがありますけど、暗記だけしていると、社会に出てからまったく使えない人間になってしまいます。条文、判例、通説、その他の学説、覚えることは山ほどあるけど、それを覚えて定期試験に通るだけでは、何にも使える知識を得たことにはなりません。

判例や学説を批判的に捉えるには、「生」の、「今起きたばかり」の事件について、判例や学説に照らして考えてみる、という作業が極めて効果的です。そもそも、適用されそうな法令を探し、判例を探し、学説を探すだけでも大変でしょう。でも、そのような作業を通じてはじめて、判例や学説の妥当性や本当の射程範囲を知ることができます。

判例や学説は、所詮、ある事件や事実関係に基づいて生み出されたものでしかなく、目の前の事案のためだけに存在しているわけではないです。もともと、「素」になっている事件や事案と目の前の事案がどう違うのか、どこが似ているのか、それをまず知る必要があります。その上で、違っている部分があっても、果たして判例や学説が同じように妥当するのかどうか、考えてみなければなりません。

裁判官として目の前の事案を眺めるより、どちらかの立場に立ってみた方が、このような作業はしやすいですし、青学にいる僕らにとっては意味があります。裁判官になる可能性はほとんどないからです(法曹志望者で、裁判官任官を希望する人を除けば)。

そういえば最高裁判例がある、学説ではこうだ、なんていう意見は、実務ではあまり意味がないと思いますよ。○○があるとか、学説ではこう言っている、だからなんなの、この事案は特殊だから、そのまま適用されないのではないか、そう切り替えされたら、覚えているだけの判例や学説は無意味になるでしょう。むしろ、最高裁判例や学説はあるけど、この事案にはこの点が違うのでそのまま適用されず、△△に修正される可能性があり、だとすると、本当は■■の対応を事前に取っておくべきだった、ないし、これから取るべきなんじゃないか。最初からこのくらい話せるようになって欲しいです。

法律って、面白いんですけど、そろそろ、その面白さに気付いてくれたでしょうか?
こんな学問(実学ではあれど、ですけど)、他には絶対ないですよ。