2018年5月5日土曜日

大学からの情報発信はもっと「シュッ」とできる?

このブログを読んでいるのは数少ないゼミ生だけのはずなので、少し、真面目なタイトルで書いています。検索もわざとされにくいようにしています。

今日は、大学からの情報発信ってもっと変われるのではないか、ということです。お金をかけろというわけではないです。大学らしく、それでいて格好いい情報発信の在り方を模索してみたいです。関西の言葉でいうと、シュッとしている?に近いですかね。結構、多義的な言葉みたいですし。

大学では発信の仕方より、発信する内容ばかり問われてきました。内容が良ければ必ず見て貰える、読んで貰えるという大前提がそこにはありました。その大前提は、もう崩れています。情報が溢れている現代では、タグとか検索ワードに引っかかりやすい情報がより多くのアクセスを得て、そうでない情報は日々埋もれていくからです。正しいことを正しく書いてある情報であれば十分、という発想はもう古すぎます。写真も同じです。綺麗だからよいとかではなくて、どんな場面の写真をどのようなタグを付けて発信するのか、どんな付加価値のある写真として発信するのか、その方が大事になってきています。もちろん、芸術のための写真、というような世界があれば、それはそれでよい。誰かがそのような写真を見つけ出して、芸術として発信してくれるのをずっと待てば良いです。

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実は、法学部の勉強も同じで、正しい内容を覚えてそれをそのまま書き出せればよい、という流れでずっと発展してきています。正しい内容ってそもそも常に変わっていくのにです。教科書の内容は正しい、一応そういうことにして学び、試験では暗記した内容を書き出すわけですよね。考えてみれば、そんな知識が社会で役に立つ可能性は限りなく低いです。教科書の知識は、目の前の出来事に応用できてはじめて意味がある。しかし、応用の仕方は学べないというか、ロー・スクールで学べとばかりに、学部教育ではほとんど扱わないでしょう。これだけ新しい技術やビジネスが現れてくる今日、基礎を暗記して書き出せれば終わり、というわけにはいかない気がします。
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正しい内容なら、よりアクセスして貰えるように、注目して貰えるような工夫をして情報発信を試みたらいい。媒体は、インスタでもツイッターでもフェイスブックでもユーチューブでも青学TVでもいい。週刊誌や新聞だっていいです。現代社会はおそろしくて、媒体によっては閲覧回数とかいいねとかで、情報のインパクトがすべて数量評価されてしまいます。評価の結果を経て、発信の仕方は変えていけばいい。試行錯誤すればいいんです。

大学の先生には間違いは許されないから、試行錯誤とか嫌いな人が多いですけど、試行錯誤なしに発展なんてあり得ないです。

情報発信の在り方は、大学での研究の在り方はもちろん、法学教育の在り方を変えてしまうと思います。もっと「シュッ」とした情報発信を模索してみたいです。僕自身も。