2018年5月29日火曜日

「その場」こそ一番大事って感覚がある?

「キュリオス」を観てきました。はじめてシルク・ド・ソレイユの作品を観たのですけど、凄いですね。圧倒されました。あのようなライブ感って、大学にはないなぁと思い知らされました。

事前に決めてあるテキストに沿って、毎年、法改正部分を除けば淡々と同じことを教えていくのが法学部、というか大学一般の講義ですよね。ゼミも、流れは毎年同じ。ジャズのように同じ曲、同じプレイヤー同士でも同じ音は二度と聞けないかもしれない、そんな貴重さってゼロです。学生としても、同じことなら聞かないでレジュメだけ得られればいい、そう思うのも仕方ないかも。

法律を学んでいると、じっくり考えてレジュメにまとめてゆっくり30分から1時間かけて話すことに慣れてしまいますが(笑)、当然ながら、社会に出たらそんなに時間は与えて貰えません。話せる時間はせいぜい1分。1分で勝負が決まるのはざらです。準備時間は、数日、1日の時もあれば、数時間の時もあれば数分しかないこともある。急な商談の時は、相手の分析にも時間をそんなにかけられません。

要するに、目の前の瞬間において最高のパフォーマンスをできるかどうか、それが大事なのです。キュリオスでも法学でもサークルでも、現場に出たら変わりないです。目の前の瞬間で成果を出せなければ、次はない。ただそれだけです。

短い準備時間、極めて短いプレゼン時間には意味があります。
せっかく頑張って準備しても、上手く話せなければ意味はない。相手には努力した分だけのことが伝わらないからです。プレゼンで失敗すれば、もはや時間をもとには戻せないこともゼミで経験して欲しいです。

キュリオスほどのライブ感を出せないまでも、休んで損したなって思って貰えるくらいの
講義やゼミをしたい、と改めて思いました。マジックでも曲芸でもアートでもなく、法律の話で。

2018年5月28日月曜日

正しい答えならより正しそうに、説得的に伝えてみない?

最近、Netflixで「指定生存者(サバイバー)」というドラマをみています。アメリカ憲法の講義の面からも極めて面白いですが、法学部の生き方を考えさせてくれるドラマですね。

報道官の役割は、事実や質問に正確に答えるだけでは足りないです。正確であることは当然で、大統領の印象を良くし、国民から支援を取り付ける手助けをすることにあります。

(だからこそ、存在だけでイメージがよさそうな方を採用するのが一般的です。話がうまいのは当然ですが。)

法学部に在籍していると、正解を探し、それを書いたり話して終わりです。誰が書いても話しても、まったく点数としても変わりない、そんなふうに思われているはずです。でも、実際には、結論や理由付けが同じでも、言葉の選び方や使い方、文章の構成、言い方、話すスピードや目線、具体例や質問の受け答えによって、印象がぜんぜん変わってきます。教科書や参考書ではぜったいに教えてくれませんけど、どんなに正解みたいなことを書いたり話していても、実は評価はぜんぜん変わってくるのです。

それは平等じゃないって思うかもしれませんが、仕方ないです。これが社会。司法試験とか定期試験ならいざ知らず、現場ではそもそも正しさ自体が100%ではあり得ないので、大事なのは正しいものはより正しく聞いて貰えて、不正確さが残るものならば不正確でも仕方ないと納得して貰える、そんな回答なのです。

法学部の講義やゼミに出ていても、おそらく、そういう感覚には至れないでしょう。卒業までは、っていう意味です。卒業して働き始めたら、すぐに分かるんですけどね(笑)。

口だけ、文章だけ上手くなれば良いと言っているわけではないです。大事なのは、正解らしきものを見つけて相手に伝えようとしても、技術がなければ伝わらないし、伝えられない。技術だけでもダメですが、限られた時間で理解して貰い、願いを叶えるにはどうしても技術が必要なのです。

ゼミの時間は限られていますけど、できる限りの基本は伝えたいと思っています。報道官にはなれなくても、自分の夢は叶えられるように。


2018年5月26日土曜日

違法適法かとか、責任のありなしの先にある世界を見てみない?

法学部に在籍していると、判例や事例を扱って、違法か適法かとか、責任があるのかないのか、原告適格があるのかないのか(訴えの利益の有無を含めて)だけを覚えて終わり、という機会が多いように思います。せいぜい、結論の理由付けくらいは覚えるかもしれないけど、それだと現場ではほとんど使えない知識でしかないです。

まず、最高裁判決を含めて、判例と目の前の事案には必ずと言っていいほど、事実関係の違いがあります。すぐにその違いに気付いて、意味のある違いかそうでないかを理解する必要があります。

もっと大事なのは、そのままだと違法になるなら、どうすれば適法にできるのか、逆に適法な事案なら、どこの事実関係が違うと違法になりうるのかについて、分析して説明できることです。

そもそも、目の前の事案について明確に違法か適法か、責任があるのかないのかを指摘するのは意外に難しいです。そこでは、違法そうな案件についてはできる限り適法に近づけるための方法、プロセス、コンテキストを探求することが重要になります。案件を止めたい側であれば、どこが一番引っかかりそうなのか、事実関係を改めて調べ直した上で違法性を検討し直してみる、という作業が求められます。

要するに、白黒はっきりしてないのが現場なのです。そこで、法学部で習ったように白、黒って騒いでみても意味はぜんぜんないですし、上司にしてみたら「それ、100パーセント確かなの?」って聞き返してそんな意見をすぐに潰すことができます。

007を含むスパイ映画やドラマを見ていると、プランBとかCっていう言葉によく出くわします。適法だと思っていたら違法だから是正しろと言われたらどうするのかを事前に考えておき、すぐに対応可能なようにしておくってことです。ヒトは必ず間違えますし、そもそも法律問題には白黒そんなにはっきり付かないものばかり。そうだとすると、スパイ映画やドラマの世界には学ぶべき事項が多いと思います。

さらに大事なのは、法学部では中立的に裁判官のような目で案件を眺めますけど、そんな場面は現場においてほとんどない、っていうことです。白にしたい、黒にしたいというどちらかの立場で案件を眺める機会の方が大半なのです。そういう場面では、スパイ映画やドラマで言うと「お前の雇い主は誰だ?」ということが最も重要になります。中立的な法解釈ではなく、自分のボスやクライアントにとって最善の利益を実現するために努力することになるわけです。そういう経験、したことないですよね(笑)?バイトで、バイト先のためにって行動してます?多くの人は、お金のために我慢してるだけですよね(笑)。

100パーセント正しい法解釈は極めて難しい前提で言うと、法学部に在籍するだけでは現場で使える法学ってなかなか学べないかもしれませんね。法学部って何のためにあるんだろうって話になりかねないけど。


(Photo taken in Tokyo in May 2018)








2018年5月25日金曜日

時間にしか生み出せない価値がある?

僕のゼミは、無駄を極力まで省いていますが、時間をかけないと得られないもの、価値はやはりあります。それを忘れないでください。

ドライフラワーって知ってますか?人工的に乾燥させて瞬時に作り出せなくはないですけど、普通、時間をかけて少しずつ水分を抜いていきます。時間をかけることで、風合いが生まれてきます。時間にしか生み出せない風合いがあるわけです。

一般的なゼミで経験できて、僕のゼミで経験できないのは、1週間程度、グループで缶詰になって調べ物をしたり、レジュメを作成したりする作業です。また、ゼミ全体で何か作品を作り上げるために長い時間を割く、ということもできません。このような時間集約的で、しかも試行錯誤の連続のような作業では、グループで何かを生み出すときに必ずと言っていいほど生じうる衝突、交渉、締め切りまでのスケジュール管理、進捗管理に基づく目標の再設定などを経験することができます。僕のゼミには、そのような貴重な経験をする機会が欠けていることになります。

僕は、貴重な経験についてはゼミ生の自主的な努力や活動に委ねることで、ゼミの内容を他のゼミとは決定的に異なるものにしています。ゼミ生には、法曹の世界だけでなく、他の業界でも、法学の知識を駆使して新しい時代を生き抜けるような人間になって欲しいです。そのためには、よりインタラクティブで、よりアウトプットを重視したゼミにする必要があると思っています。期限までに集中して一定の成果物を出す、それを相手に上手に表現できるようになってもらいたいです。

青学というと話が大きすぎますが(笑)、少なくとも僕のゼミでは、「現場で使える、世界で自分を活かせる法学」を学べます。

言い換えれば、僕のゼミを出たら、医療と法に関する事例検討を通じて、「現場」で法学を使える人間、「世界」で法学を使って自分を活かせる人間になれる。少し大げさですけど、そのくらいの意気込みで頑張ります!

時間は偉大であり、あらゆる事象の制約としてはある意味最大級のもの。人生も有限ですしね。限られた時間を、自分にとってより有用なものに振り向けて頑張ってください。

(Photo taken around Akasaka in Tokyo in May 2018)

2018年5月13日日曜日

一般教養(青スタ)は法学にとって大事?

一般教養は、侮るなかれ。法学のお勉強には効果絶大です。すごく大事です。法律は、言葉の学問なので言語学とか論理学、はたまた文学を勉強するのもよいです。また、数学とか経済学は、ロジカルな思考を鍛えるのにはうってつけ。世界をシンプルに理解して、それを数式で表すか、言葉のルールに置き換えるかの違いしかないので、やって損は絶対無いです。ミクロ経済とか国際経済学とか、僕も履修してました(笑)。心理学とかもいいですね。結局、法学では人間の争いを扱うので、ヒトがどうして争うのかとか、どうしたら不安や争いを止められるのかなどなど、知っておいたらお得です。国際政治や国際関係論、計量的な政治学も、法律ではどうにもならない世界として面白いです(パワーや投票行動次第で何でもできる、できなければ仕方ない、要はそういう世界なので)。

法律だけ勉強して頭良くなってみても、実際には使えないですよ(笑)。教科書事例なんてぜんぜん出会えないですから。目の前の事案を理解し、教科書事例のどれに近いのか、どの論点が関係しているのかを把握して、違いがあっても同じ回答になるのか違う回答になるのか、違いってそもそもどの程度なのかなどを考えられなきゃ無駄です。

そういう意味では、法学にはセンスが要ると思います。鍛えたら誰でもある程度は理解できますし、使えるはずですが、それでもセンスがモノを言う。リーガルマインドとかいうまでもなく、自分に有利な議論を法学を使って展開できる学生になってください。

一般教養は、法学にとって非常に大事ですから、どうか侮るなかれ。


2018年5月12日土曜日

今しかできないことをしよう


講義を続けていて思うのは、ゼミも含めてですが、時間って限られているなってことです。もう講義やゼミは、15回中の5回目まで進んでいます。あっという間ですね。試験は60点取れればよいですけど、それだけで終わるのはあまりにも寂しい。人生にとっての大学生活4年間は、とても特別な期間だからです。

プレゼンもそうですが、最低限しか教える時間は無くて、あとは自発的な予習や復習、そして別な問題を考えてみるなどしないと、能力を高めることはできません。

物事には何事にも適切そうなタイミング、というものがあると思います。晴れていて綺麗な天気の日には、外に出て遊ぶのがよいですし、お金がないときは働くのがよいでしょうし。僕はあまり楽しんでないけど(笑)、大学時代にはよく遊び、よく学べばよいです。講義やゼミは最低限。きっと大学での他の勉強の機会よりも、何かしら意味のあるものを提供してくれますから。

夏学期は残りあと3分の2、どうか頑張ってください。

(Photo taken at the Moss phlox Festival around Mt. Fuji, in May 2018)

2018年5月5日土曜日

大学からの情報発信はもっと「シュッ」とできる?

このブログを読んでいるのは数少ないゼミ生だけのはずなので、少し、真面目なタイトルで書いています。検索もわざとされにくいようにしています。

今日は、大学からの情報発信ってもっと変われるのではないか、ということです。お金をかけろというわけではないです。大学らしく、それでいて格好いい情報発信の在り方を模索してみたいです。関西の言葉でいうと、シュッとしている?に近いですかね。結構、多義的な言葉みたいですし。

大学では発信の仕方より、発信する内容ばかり問われてきました。内容が良ければ必ず見て貰える、読んで貰えるという大前提がそこにはありました。その大前提は、もう崩れています。情報が溢れている現代では、タグとか検索ワードに引っかかりやすい情報がより多くのアクセスを得て、そうでない情報は日々埋もれていくからです。正しいことを正しく書いてある情報であれば十分、という発想はもう古すぎます。写真も同じです。綺麗だからよいとかではなくて、どんな場面の写真をどのようなタグを付けて発信するのか、どんな付加価値のある写真として発信するのか、その方が大事になってきています。もちろん、芸術のための写真、というような世界があれば、それはそれでよい。誰かがそのような写真を見つけ出して、芸術として発信してくれるのをずっと待てば良いです。

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実は、法学部の勉強も同じで、正しい内容を覚えてそれをそのまま書き出せればよい、という流れでずっと発展してきています。正しい内容ってそもそも常に変わっていくのにです。教科書の内容は正しい、一応そういうことにして学び、試験では暗記した内容を書き出すわけですよね。考えてみれば、そんな知識が社会で役に立つ可能性は限りなく低いです。教科書の知識は、目の前の出来事に応用できてはじめて意味がある。しかし、応用の仕方は学べないというか、ロー・スクールで学べとばかりに、学部教育ではほとんど扱わないでしょう。これだけ新しい技術やビジネスが現れてくる今日、基礎を暗記して書き出せれば終わり、というわけにはいかない気がします。
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正しい内容なら、よりアクセスして貰えるように、注目して貰えるような工夫をして情報発信を試みたらいい。媒体は、インスタでもツイッターでもフェイスブックでもユーチューブでも青学TVでもいい。週刊誌や新聞だっていいです。現代社会はおそろしくて、媒体によっては閲覧回数とかいいねとかで、情報のインパクトがすべて数量評価されてしまいます。評価の結果を経て、発信の仕方は変えていけばいい。試行錯誤すればいいんです。

大学の先生には間違いは許されないから、試行錯誤とか嫌いな人が多いですけど、試行錯誤なしに発展なんてあり得ないです。

情報発信の在り方は、大学での研究の在り方はもちろん、法学教育の在り方を変えてしまうと思います。もっと「シュッ」とした情報発信を模索してみたいです。僕自身も。


2018年5月4日金曜日

勉強は水やりみたいなもの

大学生は忙しいと思いますけど、勉強って「水やり」みたいなものだと思います。植物は、種類によりますけど、水やりをしないと枯れてしまいます。水をやりすぎても枯れますけど、毎日、気にかけてあげないといけません。たとえば、モッコウバラなどは二年とか三年くらい花を一切咲かせてくれません。それでも、水やりを続けていると、急に咲き出します。毎年です。三年間くらい我慢して水やりを続けられたヒトしか、綺麗な花を見られないということです。大学生活における勉強も、モッコウバラへの水やりに近いのではないでしょうか。勉強した結果は、数年後にしか分からないです。おそらく、就職活動でも必ずしも活かしきれないと思います。それでも勉強しておかないと、いざ必要になったときに使いこなして利益を享受できない。

僕のゼミでは、法律の知識を使って貰う機会を提供しているだけです。知識は、普段の勉強や自分で時間を見つけて身につけないといけません。勉強しなくても、何となくは楽しめます。そういう問題を作っているので。

しかし、勉強したら、もっともっと面白くなるはずです。法律問題は、白を白と言ったり、黒を黒と言うような代物ではないからです。ゼミ生と僕の間で本気で争ったら、僕が負けるかもしれない、そういうものです。自分で少しずつでも、授業の時間を使って勉強しないと、ゼミの機会を最大限に使いこなせないことになります。

最高裁判例を使っても解けない問題があるということを知った上で、じゃあどうやって自分に有利な議論を作り出せるのかを考えてみる。裁判になって負ける可能性がゼロじゃないなら何もやらない、というのなら、公務員になっても何もできないでしょう(笑)。さまざまなリスクを前提として、クライアントの最善の利益を実現させる道具を知り、それを使いこなすのが法学部を出た者の宿命でしょう。弁護士かどうかとか、法律家かどうかとか関係ないです。分からないなら調べよう、それがスタートラインです。

勉強は水やりみたいなもので、なかなか効果は見えなくとも、必ず皆さんに返ってきます。だから、ゼミ以外に自分が履修している講義だけは、最低限頑張ったらいいです。