毎年、ゼミではディスカッションやプレゼンの様子を撮影してもらう機会を設けています。それには意味があって、法律論を極めるだけじゃなく、どう見せて、どう話し、どう伝えるのか、どう感じ取られるのかも大事にしてほしい、という僕なりの思いからです。たまたま、留学の機会を貰えて、その時以来、ずっと大事にしているんです。
毎年って言っても、まだ撮影してもらい始めて3回目なんですけど、写真からはいろいろなことが見えてきます。携帯ばかりいじりながら議論していないかとか(笑)、人の目を見て話しているかとか、目線の振り方とか立ち方とか手振りとか。写真なので動画のように何を話しているかわからないけど、写真だけでその場面を思い出せる感じがします。
写真は一瞬を切り取るから、「ごまかし」が効きにくいんですよね。写真家の方は、当然ながら、できる限りの最高の瞬間を切ってくれるけど、その自分の姿はどうだろう。1年たつと、だいぶ違って見えます。老けたって意味じゃなく、たぶん、人間としての深みや営みが「人相」として滲み出てしまうんです。僕自身の顔を例にすると、2018年の4月と2019年1月で違う人相に見えるし、2017年とはぜんぜん違う顔に見えます。
就活でもそうで、皆、準備してくる。だいたい同じことをします。それで評価される。だからこそ、最初の印象を大事にしてほしいですし、同じ内容を話すなら、どう話すのか、どう見せるのか、どう感じ取られるのか、そこまで考えてほしいなって、僕は思います。わざとらしくじゃなく、皆と同じことをするのではなく、むしろ自分らしさを大事にしてってこと。そこでは、きっと、付け焼刃では変えられない「人生」が滲み出てくると思います。
本当は法律論でも同じで、習ったことをそのまま話すのではなく、自分なりに理解し、どうしてこの結論で、この理由付けで正しいと思うのかが加えられているだけで、なるほどなぁって思えるんじゃないかな。僕は、そう思ってしまいます。たとえそれが、どんな先生が唱えた学説と違っていてもいいですし、判例と異なる考えでもいいから。
こうやって書いていると、僕のゼミはやはり、オーソドックスなゼミではないんだろうなって思うんですけど(笑)、僕にはこういう風にしかできないなぁって、最近思いはじめました。あるゼミの学生がレポートを提出してくれて、そこに、自分にしか書けない内容が含まれている時、何とも言えず嬉しくなるんです。長くはないし、判例もなかったけど、それは、習った内容を越えた、自分にしか書けないものだったからです。2年間ゼミを一緒にやって、最終的に行き着いた結論は、やはり重たいですよ。それは、誰が語っていることとも違っていて、それでいてある種の真実を掴んでいるからです。そういう文章を書いたり、そういう意見を自然に話せる学生とは、何だろう、一緒に仕事してみたくなりますね(笑)。
見せ方や伝わり方だけではもちろん足りなくて、事実や法律論を踏まえて、その先のこととして、見せ方や伝わり方も考えてみてはどうかな、っていうお話でした。