2019年1月20日日曜日

日本版の「The Good Wife」第一話を観てほしいー事件の先にある世界

学生の皆さんはテレビを見ないかもしれないけど、日本版の「The Good Wife」は観てほしいです。第一話だけでも是非。

僕は、弁護士ないし法廷ドラマより実は、スパイドラマの方が好きですけど(笑)、弁護士ないし法廷ドラマの中では「Suits」より、「The Good Wife」の方かな。どちらも好きですけど、後者の方が生々しいんですよね。内容が。

わざわざブログに書き残しておこうと思ったのは、僕を含めて法学部にいるとどうしても、否応なく事件の結果、勝ち負けを気にしすぎるということです。判例についても、事実、争点、結論、理由付けを覚えて終わり。まあ、覚えないよりは覚えた方がいいです。でも、本当に大事なのは、その先なんじゃないかなぁ、と僕は思っています。

事件を争えば、必ず勝ち負けはあるけど、勝っても負けても、和解に至っても、必ずその先の人生がある。その先の未来があります。そこで何を生み出せるのか、失うのか、失うものを何で補うのか、どうやって生きていくのか、そういう発想が大事なんじゃないかな、と思っています。たとえば、会社の不祥事対応であれば、その瞬間瞬間をうまく切り抜ける術も大事かもですけど、その先、苦しんで非難されても最後には信頼を回復して売り上げにつなげていけるような発想です。もっというと、この事件対応や訴訟で何が変わり、何が生じるのか、という視点を持てたら、事件や訴訟への向き合い方も変わってくるのではないかなと。訴訟の前に、結果は分からない(わかっているなら、訴訟する意味は真実らしきものの発見くらいしかない)以上、最後は勝つかもしれないし、負けるかもしれない。両方の当事者とも、勝つために必死に争うけど、和解しない限り勝ち負けは必ず着いてしまう。刑事にはそもそも和解がないですしね(日本版司法取引はありますけど)。

「The Good Wife」の第一話では、ある訴訟の結果の先が示されます。訴訟の結末はともかく、僕はその先が描かれた点について触れたいです。訴訟の目的はいろいろあると思いますけど、必ず、訴訟の先に両当事者の、そしてそれ以外の人々の生活がある。勝っても負けても、勝者にも敗者にも生活があります。その生活が少しでも「まし」になるなら、結果はともかく訴訟をする意味はあるかもしれない。結果を保証できる訴訟はたぶんありえないけど、未来のための訴訟はある。クライアントが満足する負け、ないし負け方はありうるのかも。そう感じさせてくれるのが第一話でした。訴訟で負けても、よい未来を手に入れられることもあるし、逆に訴訟で勝っても、信頼を失墜させ、仕事を失うことはありうるってこと。ネタバレを極力避けて書くと、こんな感じですかね(笑)。

勝ち負けをとりあえず置いておいて、争いに巻き込まれないように事前に何ができるのか、そして仮に巻き込まれたら、どんな主張を展開しうるのか、その結果として勝敗がついた後、何をしてクライアントの利益を守れるのか、そういう点じゃなく線、もっと言えば立体的な思考って、なかなか難しいですね。危機に追い込まれると、目の前のことで精いっぱいで、考える余裕はなくなってしまいます。僕にもそんな危機は幾つもあります。だからこそ、僕は、ゼミのみんなと考えてみたいなって思っています。危機に巻き込まれる前に、勝ち負けだけじゃなく、事件の先ある世界について、一緒に考えてみませんか?

見せ方や伝わり方

毎年、ゼミではディスカッションやプレゼンの様子を撮影してもらう機会を設けています。それには意味があって、法律論を極めるだけじゃなく、どう見せて、どう話し、どう伝えるのか、どう感じ取られるのかも大事にしてほしい、という僕なりの思いからです。たまたま、留学の機会を貰えて、その時以来、ずっと大事にしているんです。

毎年って言っても、まだ撮影してもらい始めて3回目なんですけど、写真からはいろいろなことが見えてきます。携帯ばかりいじりながら議論していないかとか(笑)、人の目を見て話しているかとか、目線の振り方とか立ち方とか手振りとか。写真なので動画のように何を話しているかわからないけど、写真だけでその場面を思い出せる感じがします。

写真は一瞬を切り取るから、「ごまかし」が効きにくいんですよね。写真家の方は、当然ながら、できる限りの最高の瞬間を切ってくれるけど、その自分の姿はどうだろう。1年たつと、だいぶ違って見えます。老けたって意味じゃなく、たぶん、人間としての深みや営みが「人相」として滲み出てしまうんです。僕自身の顔を例にすると、2018年の4月と2019年1月で違う人相に見えるし、2017年とはぜんぜん違う顔に見えます。

就活でもそうで、皆、準備してくる。だいたい同じことをします。それで評価される。だからこそ、最初の印象を大事にしてほしいですし、同じ内容を話すなら、どう話すのか、どう見せるのか、どう感じ取られるのか、そこまで考えてほしいなって、僕は思います。わざとらしくじゃなく、皆と同じことをするのではなく、むしろ自分らしさを大事にしてってこと。そこでは、きっと、付け焼刃では変えられない「人生」が滲み出てくると思います。

本当は法律論でも同じで、習ったことをそのまま話すのではなく、自分なりに理解し、どうしてこの結論で、この理由付けで正しいと思うのかが加えられているだけで、なるほどなぁって思えるんじゃないかな。僕は、そう思ってしまいます。たとえそれが、どんな先生が唱えた学説と違っていてもいいですし、判例と異なる考えでもいいから。

こうやって書いていると、僕のゼミはやはり、オーソドックスなゼミではないんだろうなって思うんですけど(笑)、僕にはこういう風にしかできないなぁって、最近思いはじめました。あるゼミの学生がレポートを提出してくれて、そこに、自分にしか書けない内容が含まれている時、何とも言えず嬉しくなるんです。長くはないし、判例もなかったけど、それは、習った内容を越えた、自分にしか書けないものだったからです。2年間ゼミを一緒にやって、最終的に行き着いた結論は、やはり重たいですよ。それは、誰が語っていることとも違っていて、それでいてある種の真実を掴んでいるからです。そういう文章を書いたり、そういう意見を自然に話せる学生とは、何だろう、一緒に仕事してみたくなりますね(笑)。

見せ方や伝わり方だけではもちろん足りなくて、事実や法律論を踏まえて、その先のこととして、見せ方や伝わり方も考えてみてはどうかな、っていうお話でした。

2019年1月13日日曜日

No orthodox but what?

「法と経済」の講義を終えるときに、毎年、プレゼミについて質問を受けることがあります。どんなやり方なのか、倍率が高いのかなどなどです。

倍率は、毎年変動するのでわからないです。昨年は、それなりに倍率が高かったのかな(偶然かもしれません)。人気なのかどうかは、自分ではわからないです。ただ、年々、素晴らしい学生が集まりつつあるのは事実。学内ルール上、プレゼミはGPAだけでの選考になりますけど、僕のプレゼミではGPAよりもセンスを要求されます。GPAとセンスは必ずしも一致しないですけど、それでもゼミの回数を重ねるたびに、センスって少しずつ磨かれていきます。ダイヤモンドが磨いてはじめて輝くのと同じです。原石のままではそれほど輝いていなくても(もちろん、念のために付言すると、原石自体で輝いている学生もいます。そういう学生は、別なゼミの方が合うかもしれませんね)。

やり方は、そうですね、法と経済の流れと似ています。あの流れが嫌いなら、もっとオーソドックスなプレゼミを選ぶべきだと思います。大半のゼミは、オーソドックスなゼミですからご安心を。でも、僕のプレゼミはいい意味で普通じゃないので(笑)。法律問題の解は決まっているのではなく、創り出したり見つけ出すもの。法律は覚えるものっていう固定概念を捨て去ってもらう。プレゼミでは、それを何度も何度も事例を使いながら学びます。医療と法がテーマですけど、それは医療分野には新しい問題、(最高裁)判例のない問題が比較的多くあるからです。別に、医療過誤訴訟だけ扱うわけじゃない。そんなのは、民法などのゼミに任せておきましょう。僕らは、もっと別の世界について目を向けます。人が生まれて死ぬまで、どうしてもお世話になる医療サービスの本質を知るのがプレゼミです。

もし、オーソドックスでなくても構わない、そう思ってくれる学生がいたら、ぜひ、ご検討ください。新しい形で法律を学び、プレゼンで分かりやすく話す方法を一緒に学べたらうれしいです。。

2019年1月12日土曜日

why do we care only about "ex ante"

2018年度、秋・冬学期の法学部での講義をすべて終えました。終わったなぁっていう思いしかないです。学生に満足感を与えられたのかどうか、僕にはわからないですけど、できる限りのことは尽くしたかなって思えます。

法学部で教えていて時々感じるのは、「こうしておけばよかったのにしていないから、仕方ない。損害賠償支払うしかない。事故や事件が起こる前の対応が大事」、みたいな発言が多いってことです。僕らが分析する事案はすべて、事後(ex post)のもの。起きた後にゆっくり分析しているから、そんなに「のんびりした」、「他人行儀な」発言になります。おっしゃるとおり、準備は足りなかったのかもしれない。でも、どうして準備や事前対策が足りなくなったのだろうかとか、準備や事前対策が足りない形で事件が生じたとき、その場で具体的にどんな対応をすれば訴訟にならなかったのか、自分ならできるのか、できないとしたらそれはなぜか、そこまで突っ込んで考えられない人があまりにも多い。しょせん他人事だから仕方ないんだけど、自分の身に降りかかったらどうします?過去は変えられない。でも、今の時点からは行動で変えられるかもしれない、でしょ。

確かに、法学部ではこれまで、法的責任の有無だけを気にしてきたように思います。ルールに事実を適用し、白か黒か、勝ちか負けか、違法か適法かなどなど、それを覚えて書き出せる、そういう能力ばかり鍛えてきたのかもしれない。過去の事例ならば、暗記力の問題にはなりますけど、100パーセント正しい答えを見つけ出せるかもしれません。

でも、実際の世の中では、法律問題について100パーセント正しい答えなんてそんなにはない。それなのに、あるルールと事実のもとでの白黒を覚えて、実社会で使えるのでしょうか。自分が目新しい問題に遭遇した時に、とっさにどう行動できるのか、その理由はどうしてか、法がどのように影響してくるのか、自分の行動が今回のケースだけじゃなく事後の事案にどのような影響を及ぼすのか、それらを考えられないと、現場では使えないヒトになってしまわないのでしょうか。「法」を振りかざしてみても、そんな知識、過去の判例や学説に寄っているだけ。それらを覚えているだけじゃ仕方ない。それらを今回の事案にどう使ってどう行動するのか、それを考えることにこそ意味がある。裁判で勝てても、市場で負けたらそれこそ最悪です。

Ex anteのことを持ち出すのは、法学部の狡さ。もう事件は起きている。そこでどうするかが、どんな解決策を見つけられるかこそ、腕の見せ所でしょう。事態を悪化させず、少しでも改善させるための方策を見つけ出すために法を学び、使ってほしい。失敗はだれしもします。完全な準備はあり得ない。だからこそ、その場での対応力を法的に磨き上げてほしいのです。

行動なんてAIが教えてくれるっておもってるあなた、AIが行動を支援してくれても、それは最善の回答では実はない。過去の事例から統計的に考えた場合の最善そうな行動を教えてくれるに過ぎない。もちろん、統計って強いみたいですけどね。羽生さんいわく。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190110-00027216-president-soci

2019年1月7日月曜日

Welcome not to N.Y. but my seminar

Taylor Swiftの「Welcome to New York」じゃないですけど、ゼミがニュー・ヨークみたいな場所になれたらいい、そんなことを考えていました(ニュー・ヨークにはぜんぜん勝てないけど)。ゼミは、仕方なしに入る人が多いですよね。テイラー・スウィフトのファンとは違って。ファンは、大好きだから音楽を聴くし、ライブにも行く。でも、ゼミはそうじゃない。 期限付きだし(笑)。選考を厳しく丁寧にやれば、ゼミを好きな人しか集まらないのかもしれない。それはそれで、信奉者だけの面白くない場所に成り下がる可能性がありますよね。

ニュー・ヨークがそうであるように、僕のゼミはいろいろな目的で人が集まる場所にしたい、そう思います。変わらないようでいて、常に変化している。輝いてはいても眩しすぎない。そんな場所。

http://www.yogakuhack.com/entry/welcometonewyork_taylorswift


難しいのは、いろいろな目的でさまざまな人がいる場所なのに魅力的でいる方法ですね。
集まってくれる人が魅力的、それは単純だけど、場所が魅力っていうのはなかなかわからない。ゼミの中身なのか、やり方なのか、それ以外なのか。そうやって考えてみると、ホントにゼミって街づくりに近いかもね。開発みたいな感じ。僕だけで開発するわけじゃなく、一緒にいるゼミ生とする。そういう意味では、ゼミ生次第で大きく性質が変わってしまうわけです。荒れ地になったり、ハーレムになってしまったり。廃墟にだってなるかもしれない。逆に、新興の都市にだってなるかも。

Taylor Swiftの「Welcome to New York」にオマージュを捧げながら、ゼミもニュー・ヨークみたいにならないとなぁ、とつくづく感じました。

2019年1月3日木曜日

正解はないが、最善の一手らしきものはある?!

明けましておめでとうございます。2019年も、どうか宜しくお願い申し上げます。

青学は、箱根駅伝で復路優勝になりましたね。選手の皆さん、本当にお疲れさまでした。
結果は結果ですけど、出雲も全日本も勝っていたわけで、箱根駅伝で勝つのが本当に難しいんだなぁって、観戦しながら教えてもらいました。

授業もゼミも佳境ですけど、僕が大事にしているのは「ライブ感」です。過去の事例をほじくり返して、覚えさせて、試験で書かせるだけっていうのは嫌なので(笑)。

ライブ感っていうのは、「まあ、こんなもんでしょう」という予想を覆し、法理論や事実次第で結論がこんなに変わりうること、結論が変わると世界が相当変化しうること、そのような変化によって人々の生活が変わり、良くなる人も悪くなる人もいること、それらを理解して貰うための仕掛けですね。僕なりの。要は、法的なセンスを磨いているんです。弁護士としてとか関係なく、仕事一般で使えるセンスを。

サッカーのワールドカップで、日本が10分間以上、ボールをキープして決勝に進んだ件について、元監督の岡田さんの話が記事になっていました。

スポニチアネックス「岡ちゃん 代表の10分間ボール回しに持論「負けた人に限って正しいのは…とかって言う」(2019年1月2日), available at https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2019/01/02/kiji/20190102s00002014268000c.html


「・・・僕らの仕事っていうのはある意味答えのないことを決断することでね。ギャンブルと一緒なんですよね。ギャンブルっていうのは勝つか負けるかだけで、どっちが正しいか間違いかじゃないんですよ。負けた人に限って、正しいのはこういう手のはずなんだとかって言うんだよね。だから正しいか間違いかじゃない。西野さんはあの場にいて、決めるのは直感で決めるわけだから、何かを感じてああやって決めて、結果勝ったんだ。それがすべて」

法律を扱う人間にとっては、(弁護士だろうがそうでなかろうが)自分で決断するのではなく、クライアントに決断をさせる、ないし、決断してもらえる環境を作り出すのが仕事。そこには、100パーセント確実な答えはないことが多い。確実じゃないのに決断を迫られるクライアントに、そのあとの事態を予測して見せてあげて、対策案の選択肢もそれぞれ用意してあげる。それらのおかげで、クライアントははじめて決断できるんです。悩みながらも、です。僕らの仕事は、100パーセントの正答率で答えを話すことじゃない。そこに、早く気付くべきじゃないかな。

講義の試験には、必ず、一応の正答が用意されていますけど、それはあくまで一応の正答でしかない。講義で大事なのは、正答を覚えることじゃなく、正答らしきものを見つけ出すプロセスだったり、考え方の方です。

ゼミでは、わざとというかあえて、答えが割れそうな生の事案(まだ判例などで結論が出ていない事案)を選んで議論してきました。答えがない世界では、どのような前提と事実関係の下で、関連法令をどう解釈して出した結論なのか、それが重要です。また、話し方や説明の仕方でも、説得力は変わってきます。たとえば、厚労省のガイドラインは、最終的な法解釈ではなく、必ずしも正しくはない。あくまで、内部解釈指針として、裁判所から参照されるに過ぎない。なぜその法解釈でいいのか、駄目なのか。目の前の事案が一般的なのか、それとも特殊なのか。ガイドラインの前提と本件はどのくらいかけ離れているのか、それともむしろ近いのか。そのような点を気にしながら、プレゼンによって灰色の答えをより白や黒に見せる。そういう技術を、皆さんにはぜひ磨いてほしかったです。

ライブ感を作り出せるのも、2018年度はあと数回。それで、皆さんには、法律問題において必ずしも100パーセントの正解はないが、最善の一手らしきものはある、というか最善の一手らしきものを見つけ、それを最善だと説得できる力を是非手に入れてほしい、そう思います。

2019年は、さらに新しいライブ感を生み出す手法を考えてみたい。ゼミ生や講義に出てくれる皆さんと一緒にです。どうか宜しくお願い申し上げます。