GWはもうすぐ終わりですね。ゼミについて書くことが多いこのブログで、法学部自体を対象にするのはレアです。ただ、訳あって書きたいと思います。
法学部全体は、ゼミより大きくて触りにくいです(触ると「やけど」しますしね)。ゼミに求められるものは、学生によってさまざまですね。ガチな勉強サークルのようなゼミがあっていいし、そうでないゼミがあってもいい(僕のゼミは、どちらかといえば後者でしょう)。授業要綱によれば、「演習は、各学部の基礎または概要科目で学んだことをもとに、自分自身で研究テーマを見つけ、大学 4 年間の集大成である「卒業論文」作成を目標とする科目」とあるので、これだけ満たせればよい。各教員とゼミ生が意味のあるゼミを毎年作り上げれば、学生もきっと満足してくれるだろう、とは思います。もちろん、ゼミは必修ではないので、入ってくれた人だけがそれぞれのゼミで満足すればよい、という気楽さもあります。そういう意味では、学生にゼミに入ってもらって、その入ったゼミで楽しんでもえらえたら、法学部での大学生活はそれなりに楽しくなるのかもしれません。とはいえ、ゼミは選抜制を導入していることから、全員が希望のゼミに入れないという悲しい現実が付きまといます。
ゼミ自体の面白さは、それぞれのゼミに担保してもらうとして、時間等の関係でゼミに入れないヒトや、入りたかったゼミに入れなかった人にとっても、それなりに満足のいく機会を提供しなくてよいのか、というのが僕の問題意識です。希望のゼミに入れた人にしてみれば、入れない学生は運が悪い、努力が足りないというかもしれないけど、あなたも入れなかった1人だったかもしれない、でしょ。
希望のゼミに入れなくても、楽しい4年間を過ごしうるような環境を作りたいし、作らないと青学に入ってもらう意味がないのではないか。そう思うわけです。それが何か、って具体的に考えた時に、僕はゼミパート2ではなく、学問そのものではなく学問を使って何か形あるものを作り出しうる環境ではないかな、と考えています。数ある授業やゼミでは、個別法令を学ぶわけですけど、それだけの知識では、新しい何かを作り出すことはできません。知識は映像にはならないし、写真にも文章にもならない。ただの知識で終わります。誰かのために、知識を使って何かを生み出してみる、そこがゼミと違うところです。こういうプロジェクト・ベースド・ラーニングは、就活には直結しますし、何より、何のために法律を学んでいるのかを改めて考えさせられることでしょう。もっとも、時間を割いても誰かと一緒にやってみたいと思わせるプロジェクトが必要になります。単位にもなりませんからね(笑)。
考えているプロジェクトはあります。かなり具体的に考えています。
ただ、僕には学生の気持ちがわからないんです(笑)。学生じゃないしね。
究極的には、法学部がもっともっと学生の手で面白くなって、偏差値とかには表れにくい満足度で、より高く評価されるようになってほしいと心から思っています。
This blog is mainly providing useful information to students who are interested in the seminar on law and policy in healthcare.
2019年5月5日日曜日
2019年5月3日金曜日
憲法記念日に寄せてー常識は本当に常識?
1947年(昭和22年)5月3日、日本国憲法が施行されたのですね。ウィキペディアのあるように、国民の祝日に関する法律(昭和二十三年法律第百七十八号)の第2条では、「憲法記念日 五月三日 日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」とあります。でも、憲法が国の成長にどんな形で寄与するのかって考えたことありますか?平和だから国が成長した、それはそうかもしれないけど、逆に平和でも経済成長率は必ずしも高まらない、という悲しい現実もあります。
今、アメリカ合衆国憲法の統治機構論を教えていて、本当に寄与しているかどうかはともかく、アメリカだったら合衆国憲法におけるチェック・アンド・バランスと権力分立こそが国の(健全な)成長を支えてきた、と信じている人は多いでしょう。幾度の改正を経てもなお、アメリカ合衆国の礎として法的争いを最終的に解決するのが、合衆国憲法です。
チェック・アンド・バランスと権力分立は、日本国憲法にも導入されている考え方です。いわば「常識」です。それ自体は疑いようもない。でも、どのくらい本気で大事だと考えられているでしょうね。日本国憲法を丁寧に読めば、チェック・アンド・バランスと権力分立がアメリカのそれらとはぜんぜん違うものだということはわかります。機能の仕方も、使われ方もぜんぜん違います。よい悪いは別にして(笑)。
問題は、常識を常識として問い直さないでいると、本質的な違いにずっと気づかないで終わってしまうことです。たとえば、条約が法律に勝るというのも、日本で普通でもアメリカでは違います。合衆国憲法では、条約と連邦の制定法は同列。後法が前法を破るだけです。もちろん、条約締結に関する内閣と国会との関係は、合衆国憲法における大統領と上院との関係に似ていますが、それでも衆議院の優越のような発想は合衆国憲法にはないのです。
6月からは就活が本格化というか佳境を迎えますね。常識に踊らされず、常識を常に丁寧に問い直す真摯な態度が、皆さんの成長を生み出すのではないかなって僕は思います。
実は今朝、ヤフーの記事を読んでいて、統治機構論や権力分立についていろいろと考えさせられました。日本国憲法のもとで、国の成長を止めているないし鈍化させているのは何なのかと。なんとなく答えは見つかったのですけど、まだ仮説なので(笑)。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1313
今、アメリカ合衆国憲法の統治機構論を教えていて、本当に寄与しているかどうかはともかく、アメリカだったら合衆国憲法におけるチェック・アンド・バランスと権力分立こそが国の(健全な)成長を支えてきた、と信じている人は多いでしょう。幾度の改正を経てもなお、アメリカ合衆国の礎として法的争いを最終的に解決するのが、合衆国憲法です。
チェック・アンド・バランスと権力分立は、日本国憲法にも導入されている考え方です。いわば「常識」です。それ自体は疑いようもない。でも、どのくらい本気で大事だと考えられているでしょうね。日本国憲法を丁寧に読めば、チェック・アンド・バランスと権力分立がアメリカのそれらとはぜんぜん違うものだということはわかります。機能の仕方も、使われ方もぜんぜん違います。よい悪いは別にして(笑)。
問題は、常識を常識として問い直さないでいると、本質的な違いにずっと気づかないで終わってしまうことです。たとえば、条約が法律に勝るというのも、日本で普通でもアメリカでは違います。合衆国憲法では、条約と連邦の制定法は同列。後法が前法を破るだけです。もちろん、条約締結に関する内閣と国会との関係は、合衆国憲法における大統領と上院との関係に似ていますが、それでも衆議院の優越のような発想は合衆国憲法にはないのです。
6月からは就活が本格化というか佳境を迎えますね。常識に踊らされず、常識を常に丁寧に問い直す真摯な態度が、皆さんの成長を生み出すのではないかなって僕は思います。
実は今朝、ヤフーの記事を読んでいて、統治機構論や権力分立についていろいろと考えさせられました。日本国憲法のもとで、国の成長を止めているないし鈍化させているのは何なのかと。なんとなく答えは見つかったのですけど、まだ仮説なので(笑)。
https://news.yahoo.co.jp/feature/1313
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